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重源上人 Archive

第十八回 「重源上人」・・(平成19年8月1日)

 現在、僧侶といえば葬式に従事する者と思われがちです。というのも、私たちは通常、僧侶に出会う機会といえば、葬式や法事がほとんどで、僧侶は境内墓地や納骨堂のいわば管理者となってしまっていると言えるからです。

「葬式仏教」という言葉がありますが、仏教者のそうした揶揄が込められているのではないでしょうか。もっとはっきり言うと、葬式仏教は仏教の堕落した姿と考えられているのではないでしょうか。近年は、自然葬や散骨など、いわば「自然に還す」葬送が注目されていますが、こうした風潮も、葬式仏教への批判とも取れるのではないでしょうか。
  ですが、考えてみると、僧侶がきちんと葬式を執り行ってくれるということは、一人の人間にとって、誕生と並ぶ死という人生の重大事を厳粛に通過したいという願いに応えていることも間違いないと思われます。葬式は死者の救済に関わる儀礼ですし、残された者にとっても儀礼的意味合いは濃いですが、死者に別れを告げる行為は、大変重要なことだと思います。

 僧侶が葬送に従事するようになったのは、所謂「聖」に代表されるような、遁世僧の活躍があって以後のことです。奈良の南都六宗や比叡山などの所謂官僧は、葬送には関与しませんでした。東大寺や延暦寺などでは、現在、葬儀もおこなっておりますが、これは第二次大戦後のことで、それまでは身内の葬式でさえ遁世僧系の他宗派の僧侶に任せていたのです。
  こうした、官僧と遁世僧の葬送に関する相違は一体なにに起因しているのか、と言いますと、官僧はいわば官僚的な存在で、鎮護国家などの国家行事に関わっていることがあります。葬儀は死穢です。古代中世にあっては、死穢を避けることは重大な関心事であり、特に官人・官僧にとっては非常に重要なことでした。
  一方、遁世僧はこうした制約から自由な存在でした。というよりはむしろ積極的に関わりを持っています。これまでに述べてきた中で、幾度か聖について述べてきましたが、彼らの中には、奈良時代の行基集団の流れを汲んで、勧進をおこなう一方、民衆救済に尽力する者が多く存在しました。平安後期になると末法思想が流布し、相まって浄土信仰が広く世に浸透しましたが、そうした時代背景の中で、聖の民衆救済の活動と民衆の来世への願いが、「葬送」という儀式で結びつくことはとても自然なことだと思われます。
  こうした遁世僧の葬送活動の理論的な背景を構築したのが、これまでに述べてきた良源・源信・覚鑁といった僧侶でした。

 鎌倉時代、こうした遁世僧の最初の第一人者といえば、俊乗房重源です。重源の歴史的な最大の功績は、源平合戦の最中に消失した東大寺復興に尽力したことが挙げられます。重源は東大寺復興の勧進事業を通じて、世に「舎利信仰」「舎利塔信仰」を広めましたが、その中で五輪塔も全国に普及させました。
  重源は、宋の浙江省にある阿育王寺で、舎利塔・仏舎利信仰を目の当たりにし、大いに触発を受けたようです。阿育王寺はインドのアショーカ王にちなんだ寺院です。アショーカ王は、仏教に帰依してより、様々な社会事業を興し、インド全土に八万四千の舎利仏塔を建てたとされる王です。まさに遁世僧の先駆的な存在と言えますね。
  帰国後の重源は、法然の門下に入り、後に高野山に移りますが、こうした中で遁世僧として勧進僧としての活動を開始します。彼の伝記と、勧進僧としての活動については『南無阿弥陀仏作善集』という史料に見ることができます。重源は勧進によって東大寺他多くの寺院の建立・修復に尽力していますが、これに平行して各地に浄土堂や入浴施設を建て、民衆救済に尽力しています。また迎え講を盛んにおこない多くの人の阿弥陀仏の救済の喜びを伝えました。
  そして重源でもっとも注目されるのが、先に述べた「舎利信仰」「塔信仰」です。重源は各地より多くの仏舎利を集め、これを独自の舎利容器に入れ、各地の寺院に納めました。特に水晶製の五輪塔に納めた仏舎利は貴重な文化財として保護されています。こうした熱心な舎利塔信仰は、やがてお墓や供養塔として各地の石塔建立の火付け役になったことはいうまでもありません。
  こうした流れに期を一にして、中国より優れた石材技術が日本に伝えられます。その代表的存在が、伊行末です。彼は東大寺再建に、重源と共に尽力し、その際に彫刻された東大寺法華堂前の石灯籠は、国の重要文化財に指定されています。
  彼らの伝えた技術の中で特に注目されるのは、硬石の花崗岩を加工する技術です。それまでの日本の技術では、凝灰岩などの軟石を加工できるにとどまっていたのですが、硬石の加工技術の伝来によって石材工芸の幅が飛躍的に広がりました。そして、現代のお墓は、そのほとんどが御影石などに代表される、硬石です。
  重源と伊行末の時代に、現代墓地の様式の原型ができあがりつつことが見てとれるのではないでしょうか。

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