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核家族が失うもの

封建的大家族の崩壊は、戦後の日本の社会を大きく変えていった

戦後のシステムの変化が、封建的大家族を崩壊に導いた…と言った方が正しいのかもしれない

 

そのシステムの変化がお墓の変化にも大きく表れている

 

幕末から明治にかけての政治の変化

女性解放運動による運動

そして戦後の民主主義社会の確立

 

これらが連動して、封建的大家族が崩壊していった

 

家に縛られていると嘆いてきた女性たちは

自由を求め、政治への参加を求め、そして男女平等を訴えて

新しい女性の生き方を確立していき

生き方の選択肢が増えていき

結果的に自由を謳歌しているのだろうか…?と疑問も残る

 

フェミニズム運動に見られる

女性の家庭内における不自由さ

男性の封建的な態度に対して不満を爆発させて得た自由は

本当に女性を幸せにしたのだろうか?

 

封建的大家族の崩壊により

個々の考えが重視されるようになってくる

すなわちそれは、縦の先祖、子孫への繋がりを

あまり意識することのない生活への変化していく

 

大家族の場合は、その環境から

日常的にご先祖様への感謝を強制され

そのおかげもあり、日頃から自分の存在が繋がっていることを自然と意識することができるのである

 

しかし、その自由は女性を逆に縛り付けているようにも見える

自由を与えられたが、扱いきれていない

役割分担が昔ほどハッキリとしていないので

不満も起こりやすい

核家族化が進み、それぞれのルールで家庭生活を維持するので

問題も起きやすい

 

大家族は、代々その家それぞれのルールがあり

嫁に来たものは、その家のルールに従って生きていく

新しいライフスタイルの模索などは皆無である

 

現代の女性からみると、かなり窮屈なようにも見えるかもしれないが

本当に窮屈だったのだろうか?

 

大家族の家事、育児、家業の手伝い

姑や舅への気遣い

そして家を守ることへの責任

 

地縁、血縁の結束が強くなれば

必然的にお墓の日常度も増してくる

感謝や報告も増えてくる

そして、いずれは自分もその中に入る実感

子や孫達へ繋いでいくこと…

 

 

お墓が物理的に身近な存在であることは

その意味あいも大きく変化している

 

一件窮屈に見えがちな大家族制度だが

本質を今一度、見直す機会がきているようにも思える

 

お墓の意味

宗教観の薄くなった現代では

とかく死に対するネガティブな感情が大きくなってきた

 

物質科学至上主義の世の中では

死は「無」であり「絶望」と捉えられることが多い

 

しかし、死は誰もが平等に訪れる避けられないものである

この世に誕生した時から人を含めて全ての生命体が死へのカウントダウンをスタートさせる

 

思想の違いや、哲学の違いなどで

その死への捉え方は大きく変わってくる

 

絶望の淵に立つもの

覚悟を決めるもの

残された家族や友人へ言葉を伝えるもの

悟りを開き受容するもの…

 

どのような心のあり方であったとしても

必ず訪れるものならば

穏やかに逝きたいと願うことも

人間としての欲求である

 

そして、その死の迎え方は

残されたもの達が残りの人生を生きていく上でも大きな影響を及ぼす

 

愛する人の死を受容するためには

先に旅立つ人間の哲学も大きく影響するからだ

 

満足した人生を送った人の人生の最期は

残されたもの達の後悔を少なくする

 

そして、その残されたもの達の想いを

時間をかけて消化させていく意味でも

お墓の存在が役立つことも多い

 

お墓の意味は多々あれど

残されたもの達が、故人の死を消化させる時間と向き合うために

有形の存在が、とても癒されることになるのは

否定しがたい事実なのである

 

お墓について家族で話し合う

高齢になると心配になるお墓問題

自分の親が高齢になった時や、親の死に直面した時など

家族でお墓のあり方を考える機会がある

 

その一方、お墓問題は

若干、非日常的な雰囲気もあり

なにかしら自分に降り掛かってくるものがないと

日頃から考えている問題でもないので

いざ、お墓について考える機会に直面した場合

お互いの考え方の相違が露見することも多い

 

なんとなく、こうではないか…?と予測だけで曖昧にしておくと

実際に、話し合う場面になって揉めることも多いようだ

 

昔は、先祖代々お墓を継承し

その家の長男が、継いでいく…というルールがあったので

その家の長男は、小さいころからお墓を守ることを言葉として聞いていているので

ある程度の覚悟もできていたかもしれない

 

しかし、現代は、そのルールが

家族の形態や環境によっても、様々で

子どもが少ないことや

女性しかいない場合

子どもが遠方にいることで、優先順位が変わるなど

一概に、長男が継ぐ…ということだけで片付けられなくなっている

 

そして、問題に直面してから

憶測を持ち寄り、話し合うので

スムーズに進まない場合も多く

覚悟のないまま、お墓を守る役目を負ったり

親の立場だと、「アテ」にしていた子どもがお墓を守れない事実を知り

愕然とする場合もある

 

そんな、揉め事を避けるために

個人墓や、夫婦墓など

継承問題を考えなくてもよい方法を選択する人も増えてきた

 

現代社会は、ライフスタイルの変化に伴い

様々な、生活上での選択を迫られる機会が増えてきた

 

しかし、日常的なことであれば

対応もスムーズなのだが

 

お墓問題のように、頻繁に気にする機会が少ないのに

事柄は大きい場合には

考え方の違いが多きく露見してしまうようだ

 

何が正しく、何が間違っているのかも

ジェネレーションギャップという言葉で片付けられれば良いのだが

問題は、そんなに簡単でもなく

結婚している場合などは

双方の親、そして夫婦間の考え方も埋めていかなければならない

 

準備のない死の場合は

その決断する時間は、あまりにも短く

溜飲が下りないうちに決定が下されることも少なくない

 

そのようなことを避けるためにも

日頃からお墓についての考え方をすりあわせておく必要がある

 

死の問題を日常から言葉に出すことに

タブー感のある雰囲気もあるが

日頃から死を見つめることは、すなわち

「生きる」ことを見つめることになるのだ

 

誰も、平等に訪れる「死」

 

だからこそ、確認しておきたい事柄である

 

死を語る時…それは、家族の絆や愛情を感じる作業でもあるのである

夫婦で同じ墓に入る意味

夫婦は、同じ墓に入ると決めた他人である

その墓の意味を噛み締めて
仏教の夫婦についての教えを
少し現代風にアレンジしたものを紹介していく

墓が、夫婦にとって
ただの祭事の一部でないことが明確になってくるだろう

 

夫婦とは、鏡である師である

夫婦とは、自分に都合の良い幸せを与えてくれる存在ではない

夫婦とは、人生を共に闘う同志である

夫婦とは、恋愛関係の延長ではない

結婚まで至る夫婦は
同じステージのモノが共に足るを知るために一緒にいるのだ

結婚は、夢物語ではなく、学びの機会である

しかし、多くを学び、共有し、慈愛の心をお互いに投げかけた夫婦は
恋愛関係以上の大きな幸福感を手にいれることができる

結婚のルールは
求めないこと
許すこと
認めること
相手のために努力し、尽くすこと
見返りを求めないこと

自分の選んだ結婚相手である
投げかけると
これらはタイムラグがあっても返してくれるだろう

過剰に求めれば、心は離れていく

結婚生活は、自己成長の舞台である
自分に学びがあれば、それだけで大成功なのだ

 

共に同じ墓に入ると決めた者同士は
その長い道のりの中
自分の伴侶を、自分の思い通りにコントロールすることが結婚ではないことを知り
共に成長したことを喜び
苦労も喜びも、一緒に乗り越えた同志

死後も同じ場所にいることを考えると
その墓の存在も大きな目標や希望となる
夫婦間に問題がある人は
今一度、夫婦間で
どのような形で墓に入るのか…を考えてみる機会を設けてみると

おのずと答えが見えてくるかもしれない

儀式ではなく
魂となった後、成仏した後のことを考えてみると
もっと答えはシンプルになるはずである

墓は、骨を埋葬する所ではなく
生きる指針になる、通過点なのである

 

 

ライフスタイルの変化とお墓の無形化

その昔、家は長男が継ぎ

娘や、次男以下の息子たちは家を出て新しい家を作っていた

 

それが、経済成長と都市化が進むことで

長男も家から出ることになり

高齢となった親は老後の介護を求めて子どもの住む都市へと移動した

 

それに伴い、親が守っていたお墓も移動を余儀なくされていったのである

 

このように都市型共同墓所は

地縁、血縁による地域共同体からに人間の離脱、お墓からの離脱の中で

お墓の流動化や無縁化、個人化へと移行していったのである

 

人々が、地域からの強いつながりから離れて

個々に合った生き方を選択していく上で、お墓のありかたも変わっていったのである

 

個人の自由が叶えやすい世の中になったことで

人々は、地縁や血縁の繋がりやしがらみから脱却することになった

 

これは、物理的な脱却だけではなく

精神的にも脱却していくことになったのではないだろうか…

 

死後、人の世話になることを避け

散骨…という方法も生まれてきた

 

先祖の繋がりも、子孫への繋がりをも避けることは

すなわち、全てを自分の責任で完結させる…

人に迷惑をかけない…という考え方に繋がってきているように見受けられる

 

自分自身の体なのだから、死後の行く先も自分で決める

…ということは、自分の繋がりを否定する考え方にも見えてくる

 

 

昨今、自分の存在意義に疑問を持つ人が増えている一方で

その存在を自分の裁量でき決める考えが、当たり前のようになってきている

 

「限られた命だから、好きな物を食べて、好きなように生きていく」

 

そこには、仏教の輪廻転生も、因果応報の考えも排除され

死=無

という考え方

 

死んだら、何もかも終わりだから

好きに生きて何が悪い…という、単独的な考えが

物質科学至上主義の世の中では、当たり前になってきている

 

そもそも仏教の考えでは

肉体は借り物であり

死後は、その肉体を自然に戻さなければならない

それゆえに、「自分体は、自分の好きに使っていい」という考えには至らない

 

不徳が、子孫に影響を受けることを考えると

自分の代だけの問題ではなくなるので

その行いには細心の注意を払わなければならない

 

そのような考え方が基盤となり

地縁、血縁の絆が深まり

自分の代だけで物事の決着をつける考え方にはなっていなかった

 

このような、現代社会のライフスタイルの変化が

お墓や、地縁、血縁の考え方も変え

人生観を変えていっていることは否めないだろう

 

何が正しいのか…という議論はここでは控えるが

 

ライフスタイルの変化と思考の変化が

どのような結果になっているのかは冷静に考えていかなければならない問題である

死を迎える覚悟とお墓の意味

宗教観の薄くなった現代では

とかく死に対するネガティブな感情が大きくなってきた

 

物質科学至上主義の世の中では

死は「無」であり「絶望」と捉えられることが多い

 

しかし、死は誰もが平等に訪れる避けられないものである

この世に誕生した時から人を含めて全ての生命体が死へのカウントダウンをスタートさせる

 

思想の違いや、哲学の違いなどで

その死への捉え方は大きく変わってくる

 

絶望の淵に立つもの

覚悟を決めるもの

残された家族や友人へ言葉を伝えるもの

悟りを開き受容するもの…

 

どのような心のあり方であったとしても

必ず訪れるものならば

穏やかに逝きたいと願うことも

人間としての欲求である

 

そして、その死の迎え方は

残されたもの達が残りの人生を生きていく上でも大きな影響を及ぼす

 

愛する人の死を受容するためには

先に旅立つ人間の哲学も大きく影響するからだ

 

満足した人生を送った人の人生の最期は

残されたもの達の後悔を少なくする

 

そして、その残されたもの達の想いを

時間をかけて消化させていく意味でも

お墓の存在が役立つことも多い

 

お墓の意味は多々あれど

残されたもの達が、故人の死を消化させる時間と向き合うために

有形の存在が、とても癒されることになるのは

否定しがたい事実なのである

 

散骨を希望する人の心理

 

 

ここ最近、散骨希望者が増えているという

自分の死後、墓に埋葬することなく

骨は、粉砕して海や山に散骨する…

 

故郷の海に蒔いて欲しい…

誰にも迷惑をかけたくない…

 

その思いは様々だ

 

墓を持たない選択は

自分の死後、子孫がお世話に来てくれない不安や

その墓を守るという負担を軽減させたい

身寄りがいないので、無縁仏になるくらいなら散骨して自然に返る方がいいと、墓を所有するより、所有しないことにメリットを感じることで発生する

 

ほかにも、ファッション的な感覚で捉え

何にも縛られない自由な発想の終着点

と、いう考えもある

 

散骨に対する考え方は

ライフスタイルが、より個人的になってきている結果だろう

 

自分の体だから、最期はどうしようと自分の自由…

 

確かに、選択の自由もあるのだが

ここで少しデメリットも考えてみたい

 

自分の体や心が自分のモノであって

その選択は他人の意見の入る余地がない…という考えは

一見、自分で全ての責任を取る、素晴らしい考えにも思えるかもしれない

 

しかし、自分の人生は自分だけのもの…という考えは

物質至上主義特有の、目の前の出来事のみに関心を示す特徴のように思う

 

生命は、過去と未来…そして全宇宙の一部であるという考えでいくと

全てを自分でコントロールしてもいい…という考えには至らない

 

自分のモノのように見える体や心、所有する物質も

所詮、宇宙の一部であり、一時的に借りているものであり

その生命体は、先祖代々受け継がれて、存在しているものと考えると

自分の体だからと言って、独断と偏見で決めるのは少し違うようにも思う

 

自分の子孫が、自分が存在するこのと意味を

過去に遡り、先祖の存在を肌身で感じることができるなら

そこに思いを馳せる機会の提供としての墓の存在は

自分の自由意志で動かしていいものとは言えなくなってくるのではないだろうか?

 

お墓を作らない選択をする人々

近年のライフスタイルの変化により

お墓を持ちたくない、お墓に入りたくないと願う人々も増えてきた

 

特に団塊の世代の女性に多いという…

 

一体、どのような理由からお墓に対する考えの変化が生まれてきたのだろうか?

 

仏事の経済的、精神的な負担を嫁や息子などに背負わせたくないと思っていることも一つの理由のようだ

 

お墓を守ってくれない不安から「お墓を作らない」という選択肢が生まれたのだろう

 

では、そのように考える人々は、どのような最期を自己決定しているのだろうか?

 

3つの例を挙げてみる

 

1、骨壺だけで良いと思っている

2、散骨したいと思っている

3、献体したいと思っている

 

葬儀にしても、社会的に大きな葬儀にすることなく

「密葬」という形をとる人も増えてきている

 

団塊世代は、地域社会の絆が薄れ始めてきた最初の世代だ

都会に暮らし、故郷との縁も薄れてきているならば

義理で参列してもらうより、本当に心を通わせた人だけに送ってもらいたいと願う人も多い

 

骨壺のみの選択をする人は

あまり宗教心は強くなく、後生のことなどをあまり考えられず

夫などが他界した場合も納骨をせず

骨壺を家に置き、時には話しかけならが

その亡骸と生活を共にする人も多いという

 

仏事は、あくまでも仏教に則り

故人が成仏するために行うものであり

宗教心が薄ければ、故人の成仏よりも遺族の心の平安が優先されるのかもしれない

 

生前、散骨を希望していた夫の骨壺を

勇気が出ずに、そのまま家に置いておく場合もあるという

 

散骨については、日本にはそのことに関する法律が整っているわけではない

昭和23年の施行された法律が、そのまま現代も使用されているので

散骨については想定されているわけではなく

法務省も、許可しているわけではないが、容認しているような形になっている

 

献体に関しては、医療の進歩に貢献する尊い行為であるが

献体希望者が多ければ、望み通りになるわけでもなく

なかなか遺族の元に遺骨が戻らないことなどもあり

遺族の心理的ケアも問題になってくる

 

このように、ライフスタイルの変化によって

人々の自分の死後の考えも多様化しているので

心の問題も踏まえながら、本人と遺族が一番良い選択をしていくように

専門のコンサルタントなどが必要な時代なのかもしれない

 

日本と欧米のお墓の違い

欧米のお墓を見ていると

どこか日本のお墓とはニュアンスが違うことに気がつく

お墓の形状や石の種類の問題ではなく

お墓の意味そのものが違うようだ

 

欧米のお墓には、死者個人の名前が石に刻まれているが

日本のお墓には、個人名が刻まれることはほとんどない

 

かつての古いお墓には、戒名が刻まれていたが

近代になって、「◯◯家之墓」と刻まれるようになった

 

死者個人の名前は家の中に吸収され

墓誌に個人名まで記さない限りは

一見して、そこに誰が眠っているのかはわからないようになっている

 

欧米のお墓には何が刻まれているのであろうか?

 

例を上げてみると

 

「◯◯の心から愛する夫○○、◯◯そして◯◯の大切な父親、◯◯の祖父と曾祖父、悲しみの記憶を超えて燦然と輝け」

 

「◯◯の愛の記録、故人の名前、生没年、故人の年齢、すべての人に尊敬され愛された」

 

などが刻まれている

 

「尊敬され愛された」などのように故人を顕彰してはいるが

基本的には、お墓は故人のために設けられた施設なのである

 

欧米では、一般的にお墓とは「遺体(または遺骨)の置き場」と考えられている

 

この考えが、日本のお墓の定義と異なっているのである

 

欧米では、墓地を死者のための施設であると考え

墓地で、死者を追悼、追憶する…というのが基本的な定義である

 

これに対して日本は

墓地を「死者のための施設」と考えることはあまりない

 

「◯◯家之墓」と刻まれるまでは

個人の戒名などを刻んでいたので、お墓の目的は故人を供養するためである

それまでは、お墓は個人や夫婦単位で建立されるのが一般的だった

 

しかし、家墓が一般的になってくると

その事情は変化してくる

 

故人は、「祖先」という、ひとくくりでまとめられ

お墓は子孫によって継承されることととなる

 

つまり、お墓は祖先を崇拝するシンボル的な意味合いを持ってきたのである

 

それは、個人の供養というより

「祭祀の場」としての意味合いが強くなってきた

 

これは、個人を供養する思想が無くなった…と言っているのではない

追善供養など、死者個人にたいしての供養も行われているが

お墓に限った話では、「祖先の祭祀の施設」という意味合いが強くなってきたのである

封建的大家族の崩壊とライフスタイル

封建的大家族の崩壊は、戦後の日本の社会を大きく変えていった

戦後のシステムの変化が、封建的大家族を崩壊に導いた…と言った方が正しいのかもしれない

 

そのシステムの変化がお墓の変化にも大きく表れている

 

幕末から明治にかけての政治の変化

女性解放運動による運動

そして戦後の民主主義社会の確立

 

これらが連動して、封建的大家族が崩壊していった

 

家に縛られていると嘆いてきた女性たちは

自由を求め、政治への参加を求め、そして男女平等を訴えて

新しい女性の生き方を確立していき

生き方の選択肢が増えていき

結果的に自由を謳歌しているのだろうか…?と疑問も残る

 

フェミニズム運動に見られる

女性の家庭内における不自由さ

男性の封建的な態度に対して不満を爆発させて得た自由は

本当に女性を幸せにしたのだろうか?

 

封建的大家族の崩壊により

個々の考えが重視されるようになってくる

すなわちそれは、縦の先祖、子孫への繋がりを

あまり意識することのない生活への変化していく

 

大家族の場合は、その環境から

日常的にご先祖様への感謝を強制され

そのおかげもあり、日頃から自分の存在が繋がっていることを自然と意識することができるのである

 

しかし、その自由は女性を逆に縛り付けているようにも見える

自由を与えられたが、扱いきれていない

役割分担が昔ほどハッキリとしていないので

不満も起こりやすい

核家族化が進み、それぞれのルールで家庭生活を維持するので

問題も起きやすい

 

大家族は、代々その家それぞれのルールがあり

嫁に来たものは、その家のルールに従って生きていく

新しいライフスタイルの模索などは皆無である

 

現代の女性からみると、かなり窮屈なようにも見えるかもしれないが

本当に窮屈だったのだろうか?

 

大家族の家事、育児、家業の手伝い

姑や舅への気遣い

そして家を守ることへの責任

 

地縁、血縁の結束が強くなれば

必然的にお墓の日常度も増してくる

感謝や報告も増えてくる

そして、いずれは自分もその中に入る実感

子や孫達へ繋いでいくこと…

 

 

お墓が物理的に身近な存在であることは

その意味あいも大きく変化している

 

一件窮屈に見えがちな大家族制度だが

本質を今一度、見直す機会がきているようにも思える

 

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