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2017-12

大化の改新

姉の皇極天皇から史上初の「譲位」という形で皇位を受け継いだのが
第36代の孝徳天皇である

孝徳天皇は蘇我氏が滅んだことによって
ただちに改革に乗り出した

従来の大臣・大連制にかわる役職として
左大臣・右大臣職を新設して
中国にならって元号も採用した
そして日本で最初の元号を「大化(たいか)」とした

難波に遷宮を敢行し中国風の壮大な豊碕宮(とよさきのみや)を築いた

孝徳天皇は皇位に就いて半年後に
改新の詔(かいしんのみことのり)を発布した
これは、豪族の私有地や私有民を認めず
公地公民制への移行を決めたもので
畿内と地方の行政組織の整備を進め
権力の一元化を目指すものだった

中央集権と律冷制への移行を掲げたこの改革を
大化の改新という

大化の改新は、その他にも国民から訴状を受け付ける目安箱を設置したりと
改革に突き進んだ

日本書記では、中臣鎌足が孝徳天皇を皇位に就けるために
乙巳の変を起こしたとも書かれている

しかし、この大きな改革である大化の改新は
後世に脚色されたものではないかという意見もある

しかし孝徳天皇が唐をお手本として改革を行ったことは事実であり
豊碕宮も唐を参考にして建てられたり
そこで催される儀式も唐風に変えるほどの熱心さだった

その当時は、唐と新羅が連合し、百済と高句麗と敵対関係になっていた
孝徳天皇は、当然唐派で
百済を支持していた蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子を倒したというのが
乙巳の変であるという見方もある

孝徳天皇が皇位に就いて9年目になったころ
前天皇である姉の皇極と中大兄皇子が難波を去り臣下を連れて飛鳥に帰ってしまう事件が発生した

孝徳天皇は一人で難波に残り、病気になってさびしく崩御した

この突然の都移転は
新羅の使節が唐の服装をして現れたことが原因だったようだ

新羅は唐の属国的な存在となったことを察した
皇極と中大兄皇子が孝徳天皇の親唐志向に危機感を持ち
日本も新羅のようになってしまうことを危惧して判断した都移転だったようだ

その皇極は、その後再び皇位に就き
第37第斉明天皇となった

前任の時とは打ってかわり北海道や東北に3度にもわたって蝦夷遠征軍を派遣するなど
強権をふるう天皇となった

乙巳の変②

中臣鎌足は天皇でさえ見下す蘇我氏を倒そうと動き出した

中臣鎌足は仏教の受容に関する件で物部守屋に味方をして
蘇我馬子に刀を削がれたことで因縁もあった

しかし、打倒蘇我氏のために共に戦ってくれる仲間を大々的に集めることもできないので
王族に近づき、内密に共に戦う同志を探していた

そして、蘇我氏を倒すために最もふさわしい人物といえる
中大兄皇子に飛鳥寺で開催された蹴鞠の席で出会うことになる

中大兄皇子は皇極天皇と舒明天皇の長子であり
まだ若いが蘇我氏への恨みは強い

しかし、すぐに動き出せば身に危険が及ぶ可能性がある

ふたりは密かに蘇我氏を倒すための計画を練り
蘇我氏の反主流の倉山田石川麻呂(くらやまだのいしかわまろ)を加担させることに成功し
さらに佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)や葛城稚犬養連網田(かずらきのわかいぬかいのむらじあみた)も仲間にした

山背大兄を倒したあとは
さすがの蝦夷や入鹿親子も警戒しはじめた
邸宅を柵で囲ったり、武器のための倉庫を建てたりもした
外出の際は兵士に護衛をさせて敵からの攻撃に備えた

中大兄皇子と中臣鎌足は6月12日に決行しようと決めた
その日は、朝鮮半島から使者たちが来て板蓋宮(いたぶきのみや)で天皇に貢物を奉る日だった
さすがの入鹿も天皇の前では兵に護衛をさせることもできない

儀式が始まると中大兄皇子は通用門を封鎖した
中臣鎌足も弓を構えた
だが肝心の入鹿が姿を見せると
佐伯連子麻呂も葛城稚犬養連網田も気後れしてしまい動けなくなってしまった

そんな二人の姿を見て中大兄皇子が斬りかかった
それを見た佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田も後に続きい入鹿にとどめを刺した

翌日、事件を知った蘇我氏の軍は瓦解し
蝦夷も討たれることになる

宣化天皇の時代以降、長い年月にわたって
権力を握っていた蘇我宗家も滅んだ

目の前で衝撃的な惨事が起こったことで
皇極天皇は皇位を退き、弟の軽皇子(かるのみこ)に譲った

この事件はこの年の干支にちなんで
乙巳の変と呼ばれている

生前に皇位を譲る「譲位」が行われたのは
これが初めてだった

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