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2017-01

応神天皇と3人の子①

第15代の応神天皇は多くの妃をもっていた
そして、その妃たちとの間に男女27人もの子をもうけた

その中でも特に応神天皇が信頼を置き
目をかけていたのが
年の順に
大山守命(オオヤマモリノミコト)、大雀命(オオサザキノミコト)、宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラツコ)
の3人であった

天皇はある日は、大山守命と、大雀命を呼び出し
こう問いかけた
「お前たちは、年上の子と年下の子では、どちらがかわいいか?」と
応神天皇は一番年若い宇遅能和紀郎子を次期後継者と考えていたからだ

大山守命は「年上の子のほうがかわいい」と言った
大雀命は、父の真意を察し「年下の子のほうがかわいい」と答えた

大雀命の言葉に満足して
応神天皇は宇遅能和紀郎子を次期天皇に任命し
大雀命を自分の政治の責任者に任命した

大山守命には海や山の民を統括する閑職を与えた

応神天皇は慈愛の深い人柄だった
それを象徴するかのようなエピソードがある

日向に美しい髪長比売(カミナガヒメ)がいると聞いた応神天皇は
ぜひ妃に迎えたいと
大雀命に難波まで迎えに行かせた

しかし、髪長比売を見た大雀命は一目惚れしてしまった

ここで古事記では定番の
一人の女性を奪い合う骨肉の争いに発展しそうだが
応神天皇は快く大雀命に髪長比売を譲ってしまったのである

応神天皇のこのおおらかな性格のおかげか
応神天皇の御代は大きな戦乱もなく
平穏な時代が続いていた

この時代は朝鮮半島から多くの渡来人が訪れて
日本に定住していく

新羅から来た人々は
建内宿禰(タケシウチノスクネ)に率いられて灌漑用の百済池(現在の奈良県広陵町)
をつくった

また国内の文化の向上を図るため
百済に人材を集めたが
百済王は文人の和邇吉師(ワニキシ)を献上
さらに鍛冶の技術者なども送ってくれた

当時の先進地だった朝鮮半島の最新技術が
日本国内に伝えられ国力の発展に大きく貢献した

秦氏や漢氏といった
のちに朝廷を支えることになる豪族の祖先たちも
このころに日本にやってきたとみられているが

日本の発展のために訪れたというよりは
朝鮮内の戦乱が激化したために亡命してきたものたちとみられている

神功皇后の遠征③

大和へ凱旋しようとした時
神功皇后は我が子の品陀和気の異母兄にあたる
香坂王(カゴサカノミコ)と忍熊王(オシクマノミコ)が反逆しようとしているとの情報を耳にした
神功皇后と品陀和気を待ちかまえて殺害し、天皇の座を奪う計画を立てていたのだ

仲哀天皇の亡骸を運ぶ船を用意して
その船に品陀和気を乗せて
品陀和気は死亡したという噂を流した
その喪船を先頭に、瀬戸内海を進んでいった

香坂王と忍熊王は
斗賀野(現在の神戸市灘区、または大阪市北区兎我野町付近といわれている)
で待ち伏せをして
そこの場所で戦いを占った
すると突然、大きな猪が現れ、怒り狂って香坂王を食い殺してしまった

占いの結果にめげずに
忍熊王は伊佐比宿禰(イサヒノスクネ)を将軍に立てて
軍勢を構え、神功皇后に攻撃をしようとした

神功皇后は、軍勢を迎え撃ち
忍熊王を劣勢に追い込んだ

忍熊王は山城国で陣容を立て直し
一進一退の戦いとなった

この膠着状態を脱するために神功皇后の将軍が
一計を案じた

神功皇后が死亡したと偽情報を流し
降伏するように見せかけて
油断した相手のすきをついた

この作戦は見事成功し
忍熊王の軍は散り散りになった

逃げる忍熊王の軍を、神功皇后の軍は
逢坂(現在の京都府と滋賀県の境)まで追いつめて
楽浪(琵琶湖西岸)で壊滅させることに成功した
降参した忍熊王は琵琶湖に入水して命を絶った
神功皇后の軍の大勝利となった

一方、品陀和気は一度死んだことにされたために
その汚れを清める必要があった
そのため敦賀の気比神宮に参拝する

そこで品陀和気は、気比の伊奢沙和気大神(イザサワケノオオカミ)と
汚れ払いのために名前を交換した

汚れを落とし清らかな身となった品陀和気は
母の神功皇后のいる大和へ向かい
やがて即位して応神天皇となった

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