Home > Archives > 2011-09

2011-09

「仏教」について

お墓を語る上で、外すことのできない事柄が宗教である

それぞれ宗教によって教えが違う…ということは

死生観も違ってきて

当然、そのお墓に対する考え方も変化してくる

 

日本は、仏教に沿って葬儀を行う場合が多い

仏教徒が多い…というよりは、自分の先祖にならって

そのまま、仏教式の葬儀を取り入れている家族が多いのではないだろうか?

日本人は、柔軟な思考の持ち主なのか…葬儀は仏教式で、結婚式は教会で牧師の前で契約を行なう人も少なくない

これは、日常的に宗教観を取り入れて生活している…というより

人生の節目には、宗教的な形を必要とする場合が多いので

その時に合わせて臨機応変に対応しているのだろう

 

しかし、宗教観というものを深く追求していけば

自分の生き方を、その宗教観に沿わせる形になるので

日常の中で無視しながら生きていくことは難しいだろう

 

日本人の多くが葬儀で取り入れている仏教にしても

(あえて、信仰しているという言葉は控える)

ひとくくりにできないほど、複雑な様相である

 

では、仏教の教え…すなわち、最終目的はどこにあるのかご存知だろうか?

仏教とは「仏と成ること」「成仏すること」を最終目的とする宗教である

人間の苦しみから解放されて、完全なやすらぎの「さとり」を得た人のことを、「仏」「ブッタ」「覚者」「如来」などと言うが

お釈迦様が目指したのは、この「さとり」を得た「仏」となることであった

 

この2500年前にお釈迦様によって説かれた宗教は

長い年月と、広い地域に広まったこともあり

解釈が変化し、宗派に分かれ、多種多様な解釈が世界に存在している

その時の社会情勢によって変化し

また、その時代の都合に合わせても変化して

自分達の解釈が正統派であると主張する宗派が数多く存在するので

同じ仏教と言っても、全く違ったものになっているのである

細かい歴史的背景の解説は別の機会にして

自分の宗派に対する教えや解釈、その歴史的背景を理解することをおすすめする

そうすると家族や親族の葬儀に望む姿勢も少し変わってくるだろう

「けがれ」と「死」がもたらす恵み

以前、「死」が「けがれ」や「不吉」なものとして捉えられ

敬遠するようになったのは、最近の情報操作が原因ではないか?と書いたが

生活の中で敬遠しがちな、その「けがれ」は、新しいものを生み出す力として解釈されていたようだ

確かに「死」=「けがれ」「きたない」「こわい」

などのマイナスイメージは否めない

しかし、この死というものは

命あるもの…細胞の活動により、その形を保つものに関しては

避けて通ることのできない、必ず経験するものである

死は、細胞の機能停止により、その個体としての役割を終え

時の経過とともに腐敗していく

しかし、その腐敗活動は、新しい個体への生まれ変わりである

原子的な解釈では、地球全体として質量保存の法則が成り立つと考えると

その細胞は分解され(腐敗し)別なものへと生まれ変わり

その作業を半永久的に繰り返しているのが

地球上の生命体だ

その「死」は、新しいものの誕生への序章と考えることは

昔からあったようで

「古事記」を読み解くと

「死」ばかりではなく、排泄物のような「汚い」ものさえも

人々の生活に欠かせないものへの生まれ変わりとして描かれている

その考えは、単純に「けがれ」から「必需品」への生まれ変わりではなく

もっと高度な構造を持った哲学的な考えをもとに

多くの経験から会得した信憑性の高い論理となっている

そのように、先祖が多くの経験から会得した「死」に対する解釈を理解しないことには

現代、行なわれている「お墓」や「お葬式」の概念を

表面的にしか捉えられない可能性がある

今一度、本当の意味での「死」の迎え方を考えてみる必要があるのかもしれない

Home > Archives > 2011-09

 

このページのTOPに戻る