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仏教について Archive

畜生道、餓鬼道、地獄道

三悪道と仏教の歴史

仏教には六道輪廻の考えがあると

以前も記したことがあるが

仏教では、現世での行い如何によっては

天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道

の、いずれかに転生すると言われている

そして、地獄、餓鬼、畜生の3つは、三悪道と呼ばれていて

皆が、避けて通りたいと考えている道である

そして、三悪道に落ちないためにも

現世での行いに気をつけて

来生を、より良い転生ができるように願うのである

しかし、その道が厳しく

欲を滅し、厳しい規律を守り修行に励まなければ

三悪道を避けることはできないと考えられていた

そして、悟りを開いた状態(=解脱)を目指すのである

その道は、煩悩を捨てる道であるため

多くのものは、その道を断念せざるを得ない場合も多く

しかし、三悪道に転生する恐怖もあり

死後の解釈を変えて

全ての死者が仏になれるようなシステムに変わっていった

現代の日本では、宗教観も

冠婚葬祭の時のみに登場するような形で

その教えを深く考えずに

儀式だけを執り行う場合も少なくない

もっと酷い場合には

婚姻する場合と、葬式をする場合に

全く違う宗教の儀式を行うことも少なくない

故に、その宗教観の中に

三悪道に転生する恐怖もなく

取りあえずは、追善供養を行うことで

現世での行いが悪くても

成仏できることになっている

しかし、その敗者復活戦のようなシステムに変わったことによって

現世で良い行いをすべきである…という観念が薄れて

多少悪いことをしても、成仏できる…と考えるのであれば

まだマシな方で

儀式のためのパフォーマンス的な捉え方では

現実主義に偏り過ぎて

目に見えることだけを信じるようになり

行い云々以前の問題となってしまう

そうならないためにも

真理を伝えるべき人間が

正しい解釈を伝えることが重要になってくる

儒教にとっての先祖

古代の中国は、アジア圏において先祖祭祀において先進国であった

近隣の、日本や朝鮮半島が、先祖祭祀をないがしろにしていた…というわけではなく

先祖祭祀や、祖先崇拝の習慣は存在していた

中国が先進国である…という意味には

先祖祭祀や、祖先崇拝を思想として体系化し、それを記録に残していた…という意味である

この概念から考えると、日本や朝鮮半島は、先祖祭祀における後進国であると言わざるをえない

古代中国は、現代まで約3000年以上もの間

家庭生活はもちろん、政治にいたるまで常に先祖祭祀や祖先崇拝は重要な行事であり、正当性を持って行われてきた

ここでの中国の先祖祭祀や祖先崇拝と比較のため

儒教の先祖祭祀や祖先崇拝と比べてみる

ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは

儒教は、カテゴリーとして「宗教」には属さないと考え

儒教は、世俗社会の「道徳倫理」であると解釈している

以下、マックス・ウェーバーの言葉を引用する

「救済の思想などは、儒教的倫理にはもちろんまったく存在しなかった。

儒教徒は、社会的な無作法というあさましい野蛮から救済されること以外に、霊魂の輪廻からも、あの世で受ける殃罰からも(両者を儒教は知らなかった)、生からも(これを儒教は肯定していた)、与えられた社会的世俗からも(この世俗のチャンスを儒教は自制によって抜け目なくものにする考えだった)、悪または原罪からも(原罪というものを儒教は知らなかった)、その他のなにかあることからも、「救済」されることを願わなかった。「罪」であると儒教にみなされることができたのは、ただ、孝弟というひとつの社会的な基本義務の侵害だけであった」

このように、儒教は、現実生活での倫理に従い義務として

先祖祭祀や祖先崇拝を行ってきた

先祖祭祀が死後の問題として、死後の世界が思想的に深められることはなかったので

儒教は、宗教ではない…という考えである

仏教は、輪廻転生や因果応報の考えで

儒教の欠陥を補った形になったのだが

そのような基本問題が儒教の先祖祭祀や祖先崇拝には見られないのである

先祖崇拝の考え方

古代の中国は、アジア圏において先祖祭祀において先進国であった

近隣の、日本や朝鮮半島が、先祖祭祀をないがしろにしていた…というわけではなく

先祖祭祀や、祖先崇拝の習慣は存在していた

中国が先進国である…という意味には

先祖祭祀や、祖先崇拝を思想として体系化し、それを記録に残していた…という意味である

この概念から考えると、日本や朝鮮半島は、先祖祭祀における後進国であると言わざるをえない

古代中国は、現代まで約3000年以上もの間

家庭生活はもちろん、政治にいたるまで常に先祖祭祀や祖先崇拝は重要な行事であり、正当性を持って行われてきた

ここでの中国の先祖祭祀や祖先崇拝と比較のため

儒教の先祖祭祀や祖先崇拝と比べてみる

ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは

儒教は、カテゴリーとして「宗教」には属さないと考え

儒教は、世俗社会の「道徳倫理」であると解釈している

以下、マックス・ウェーバーの言葉を引用する

「救済の思想などは、儒教的倫理にはもちろんまったく存在しなかった。

儒教徒は、社会的な無作法というあさましい野蛮から救済されること以外に、霊魂の輪廻からも、あの世で受ける殃罰からも(両者を儒教は知らなかった)、生からも(これを儒教は肯定していた)、与えられた社会的世俗からも(この世俗のチャンスを儒教は自制によって抜け目なくものにする考えだった)、悪または原罪からも(原罪というものを儒教は知らなかった)、その他のなにかあることからも、「救済」されることを願わなかった。「罪」であると儒教にみなされることができたのは、ただ、孝弟というひとつの社会的な基本義務の侵害だけであった」

このように、儒教は、現実生活での倫理に従い義務として

先祖祭祀や祖先崇拝を行ってきた

先祖祭祀が死後の問題として、死後の世界が思想的に深められることはなかったので

儒教は、宗教ではない…という考えである

仏教は、輪廻転生や因果応報の考えで

儒教の欠陥を補った形になったのだが

そのような基本問題が儒教の先祖祭祀や祖先崇拝には見られないのである

儒教における先祖祭祀と祖先崇拝

古代の中国は、アジア圏において先祖祭祀において先進国であった

近隣の、日本や朝鮮半島が、先祖祭祀をないがしろにしていた…というわけではなく

先祖祭祀や、祖先崇拝の習慣は存在していた

中国が先進国である…という意味には

先祖祭祀や、祖先崇拝を思想として体系化し、それを記録に残していた…という意味である

この概念から考えると、日本や朝鮮半島は、先祖祭祀における後進国であると言わざるをえない

 

古代中国は、現代まで約3000年以上もの間

家庭生活はもちろん、政治にいたるまで常に先祖祭祀や祖先崇拝は重要な行事であり、正当性を持って行われてきた

 

ここでの中国の先祖祭祀や祖先崇拝と比較のため

儒教の先祖祭祀や祖先崇拝と比べてみる

 

ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは

儒教は、カテゴリーとして「宗教」には属さないと考え

儒教は、世俗社会の「道徳倫理」であると解釈している

 

以下、マックス・ウェーバーの言葉を引用する

 

「救済の思想などは、儒教的倫理にはもちろんまったく存在しなかった。

儒教徒は、社会的な無作法というあさましい野蛮から救済されること以外に、霊魂の輪廻からも、あの世で受ける殃罰からも(両者を儒教は知らなかった)、生からも(これを儒教は肯定していた)、与えられた社会的世俗からも(この世俗のチャンスを儒教は自制によって抜け目なくものにする考えだった)、悪または原罪からも(原罪というものを儒教は知らなかった)、その他のなにかあることからも、「救済」されることを願わなかった。「罪」であると儒教にみなされることができたのは、ただ、孝弟というひとつの社会的な基本義務の侵害だけであった」

 

このように、儒教は、現実生活での倫理に従い義務として

先祖祭祀や祖先崇拝を行ってきた

 

先祖祭祀が死後の問題として、死後の世界が思想的に深められることはなかったので

儒教は、宗教ではない…という考えである

 

仏教は、輪廻転生や因果応報の考えで

儒教の欠陥を補った形になったのだが

 

そのような基本問題が儒教の先祖祭祀や祖先崇拝には見られないのである

心理学で解釈する幸せとは

 

心理学の観点からの幸せは

どう解釈しているのだろうか?

 

哲学でも幸福論は様々な学説がある

宗教学…仏教においては、解脱=六道輪廻からの脱却が究極の幸せとされている

 

マズローの自己実現理論をご存知だろうか?

マズローの欲求段階説とも呼ばれている

 

人には、5段階の欲求があり

低い欲求から順番に満たされていき、欲求が変化するというものだ

 

私は若干異論もあるが

わかりやすいのでこれを使って説明する

 

その5段階は下記

1、生理的欲求

2、安全の欲求

3、愛の欲求

4、名誉の欲求

5、自己実現の欲求

 

人は1番が満たされていないと

2番以降の欲求はでてこない

 

食事に困っている人には、名誉やお金より

まず空腹を満たすことが優先になる

 

例えば、あなたが夫に不満があったとする

その夫が山で遭難して行方不明になったとしたらどうだろう…

あなたは、生きていてさえいてくれれば何もいならい…と願うだろう

しかし、生きて帰ってきたら

きっとまた不満を言うだろう

 

お金に困っている時は

余裕がなくても、ことは足りる収入があったら、それだけで幸せだと願う

 

しかし満たされれば、もっと収入が欲しい…など欲求が増える

 

それは永遠に満たされることのない

レールに乗っているいうことだ

 

そして人は満足感に耐性を持つ

ある人が10万円くれたとする

とても嬉しい

だが、その人は毎日10万円をくれるようになると

耐性ができ、当たり前になり

最初と同じ満足感は得られない

それどころか急に中断されると不満に思うだろう

 

人の欲求は底なし沼

留まることを知らない

 

不満や悩みの根源は

これらの欲求が満たされないことから発生することが、ほとんどだ

そのようなシステムになっているのだ

 

この欲求のシステムをキチンと理解することから

幸せの追求が始まる

宗教学の幸せの追求と、心理学の理論づけの融合は
本当の幸せの追求に役立つ知識となってくるのではないだろうか?

仏教のいう幸せとは何か?

世界には、様々な宗教がある

キリスト教、仏教、イスラム教、ユダヤ教

道教、儒教、密教に、少し角度を変えて神道など…

 

大昔、大陸が陸続きになっていない場所でも

同じ思想を持っていたことが理解できる文献などが存在する

宗教の根源は、同じとこだと思われる

 

現代は、添加物や電磁波などによって

人の霊的感覚は低下しているが

昔の人は、この霊的感覚を当たり前に持っていたようだ

 

その感覚から得られたものを思想として

次世代に伝えていったものが宗教だ

 

時代を経て、解釈が変わり

今の宗教と原始的なものは、だいぶ変わってきたが

 

その中でも、かなり真理に近いと思われる原始仏教や密教などから

この「幸せ」について考察してみる

(現代の仏教と、原始仏教はだいぶ違うのでご注意を。原始仏教はヨガの教えに近い)

 

仏教の教えでいう幸せは

解脱である

 

魂は輪廻転生を繰り返す…というのが仏教の教えである

功徳の量、不徳の量により転生先が決まり

 

その転生先は、6つに分かれている

「天道」「阿修羅道」「人間道」「餓鬼道」「鬼畜道」「地獄道」

である

これを六道輪廻と呼ぶ

 

不徳が多ければ地獄へ

功徳が多ければ天界へ向かう

 

だから、仏門に入った修行僧は

功徳を貯め、その功徳を極力消耗しないように質素な生活に励む

 

その輪廻転生から脱却し

生まれ変わることのない魂へと向かうことが

仏教のいう幸せである

 

この輪廻転生から脱却した魂は

肉体を持たず、永遠に幸福感を得られることになるという

 

そして、次の生まれ変わりにおいて

人間以上に生まれ変われる人間の確立は100万分の1しかいないと言われている

 

それほどに、人間とは不徳を重ねている生き物なのだ

 

仏教の現代の解釈

お釈迦様が解いた仏教の教えと、現在日本で語られている仏教では

全く別なモノになっている

 

これは、長い歴史と距離を移動するにあたって

少しずつ解釈が変わってきたようだが

現代の仏教の解釈と、原始仏教では別の宗教と言ってもいいほどの変貌を遂げているのだ

 

その解釈は枝分かれをして

ある意味、柔軟な都合の良い解釈もされながら伝わってきていて

 

現代では、葬祭時のイベントのマニュアル的なものになっている

 

日常的な信仰心はなく

死を迎えた時に、その宗派に則り解釈された作法で儀式を行い

全ての人は、成仏できることになっている

 

しかし原始仏教は、都合良く全員が成仏できるようなものではなく

現世の行い如何によっては、成仏することなく

その業に従い転生するものと教えられている

 

それ故に、人々は来世の果報を願い

成仏、またはよりよい転生を願って徳を積むのである

 

昔の宮家の人々が、任務の遂行後や後家になった後に出家するのも

来世の果報を願ってのことであった

 

俗世を捨て、仏門に入ることは

尊い行いであり

生きながらに世を捨て、欲を捨て、執着を捨て

心の浄化に励むのである

 

それに反して、現代の儀式では

現世の行いが、どのようなものであっても成仏できてしまう…という

ちょっと都合の良い解釈がなされているのは

歴史や時代が移り変わり

ライフスタイルが変化している影響もあるのだろう

 

しかし、それで現代人は後生が解決できたと安心しているのではなく

みんながやっているから、とりあえず儀式として執り行い

その意味など、あまり考えていない場合も多いのかもしれない

六道輪廻と因果応報と無常を知る

仏教用語で、日常にもよく使用されているこれらの言葉

仏教の教えを知ることで、日頃の悩みから解放されることを昔の人達はよく理解していたようだ

 

現代でも、使用されている言葉も多く

昨今のスピリチュアルブームによって、これらの言葉を使用するカウンセラーも少なくない

 

しかし、本当の意味を理解するまで至っていないことも多く感じられる

 

六道輪廻は、輪廻転生の方が使用頻度が多いだろう

六道輪廻とは、生まれ変わりを繰り返す…ということであり

現世での行いが、次の生まれ変わりを決めるというもので

その行いによって行き先が決まる

六道とは「天道」「人間道」「修羅道」「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」の六つである

仏教では、最終的に六道を巡らず、解脱を目指す

六道輪廻の考えが基盤にありながら行動するということは、次の世のために、極力不徳を積まないように心がけることになる

 

 

因果応報は、業の法則とも呼ばれており

良い行いも、悪い行いも、必ず自分に返ってくる…という考えである

この考えが身に付くと、自分の身に何かが降り掛かってきたとしても、自分の過去の行いを反省することはあっても、人のせいにしたり、環境のせいにしたりすることがないので、自らの行動に自然と責任を持てるようになるのである

 

 

最後に無常

この無常は、その字の通り「常ではない」ということである

人も、他の生物も、そしてこの地球も「常ではない」

いつも変化を繰り返し、未来永劫変化のないものなど存在しない

 

しかし、現代人は人が身も心も無常であることを忘れ

執拗に執着し、苦悩を訴える

 

人の気持ちは変わるものだ

自分の気持ちの変化には敏感なのに、人には「常」を要求し

「常」ではないと知ると、相手を責めることもある

 

 

人は、信仰心の有無に関わらず

この3つの仏教の教えを知るだけで、随分と人生が快適になるはずだ

 

聖の特性

日本を代表する民族学者である五来重氏は著書の中で

聖には「隠遁性」「苦行性」「遊行性」「呪術性」「世俗性」「集団性」「勧進性」「唱導性」などの八つの性格がある

と述べている

その五来重氏の著書から、聖の特性について引用する

「…このような宗教者には、呪力を身につけるための山林修行と、身のけがれをはらう苦行があった。これが山林に隠遁すり聖の隠遁性と苦修練行の苦行性になる

原始宗教では死後の霊魂は苦難に満ちた永遠の旅路を続けると考え、これを生前に果たすために巡礼が聖の遊行性となる。

こうした行から得られた呪験力は予言・鎮魂などの呪術に用いられるので、聖には呪術性がある。

また原始宗教者は一定期間、山伏の夏行や入峯修行のように、何ヶ月か隠遁と苦行のきびしい掟があるが、それ以外は妻帯や生産などの世俗生活を営むので、俗聖と呼ばれる世俗性がある。

なお原始宗教ほど信仰を内面的な質より作善(宗教的善行)の数量ではかるので、多数者による多数作善を重んじるため、集団で作善する集団性がある。

多数者の集団作善は大衆を動員して道や橋をつくり、寺や仏像をつくる勧進に利用されるので、仏教化した聖の最大のはたらきは勧進性であった。

勧進の手段として説教や祭文などの語り物と、絵解と、踊念仏や念仏狂言などの唱導をおこなう。これが聖の唱導性だがこれが庶民文学や民間芸能となって日本文化に寄与したのである」

別所について

「…比叡山、高野山、東大寺、興福寺などの周辺に多くの別所があって、本寺の研学や修業の過程から堕落した念仏者や、みずから念仏往生をねがう僧や聖が隠遁した。

比叡山には、七別所があり、西塔の北谷、黒谷別所からは法然が出るが、大原別所からは良忍を出した。大原別所の聖たちは高野聖との往来が最も多く、融通念仏という集団多数作善の方法を案出して、盛んに勧進活動を展開する。

一方、高野山にも多数の別所があり、天野別所とともに莫大な高野聖を擁した。

東大寺は南山城の光明山別所が有名で、永観、重誉、実範、心覚、明遍などの著名な念仏僧が隠棲したが、心覚と明遍はもう一度高野山に再隠遁して高野山の中心人物となった。

また興福寺の別所に南山城の小田原別所があり、教懐も高野山に来て、小田原別所聖とよばれて初期高野聖の祖となる。」

真理が変化する理由

世界には様々な宗教が存在する

宗教には多くの種類が存在するために

その数だけ真理が存在するように錯覚する

しかし、真理とは絶対無二の存在であるから

本当は、一つしか存在しないはずなのである

よくよく調べていくと

大きな宗教では、源流は一つのような感じもする

その大きな流れから、無数に枝分かれして

とうとう、その存在自体の真逆の解釈まで発生してくる

なぜ、そのようなことが起こるのだろうか?

仏教やチベット密教の起源をたどると

かなり厳しい修行や、功徳と積み上げなどが要求されていて

それをかなり高いレベルでクリアしないと

成仏や解脱はできないことになっている

仏教では、六道輪廻の考え方もあり

厳しい戒律を守らなければ、来世は地獄に落ちる可能性も示唆される

普通に生きていては、人間に生まれ変わる可能性も少ない

しかし、現在日本に伝わる仏教では

現世でも行い如何に関わらず

誰でも、供養などを行うことによって

成仏できるような仕組み(?)になっている

果たしてこれは正しいことなのか?

これが真理なのだろうか?

転生を真理とするならば

人は来世も現状か、現状よりも良い環境に転生したいと考えるだろう

しかし、その修行が、煩悩を捨て、厳しい状況の中に身を置き

それに耐え続けなければならないだとしたら

よい転生をあきらめるか

もしくは、自分に少し楽な風向きになるように

信じている真理そのものを歪ませてしまう可能性がある

正しくないのはイヤだが、欲望を捨てることもしたくない…

であれば、解釈を変えて少しでも楽に成仏したい…と考えるのは

人間らしいことなのかもしれない

そして、自分を肯定するために

多くの都合の良い解釈が生まれてきたのかもしれない

しかし楽をしようとする教えには

矛盾が多い

真理とは、矛盾が無いことが絶対条件であるはずなのに…

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