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2014-04

日本神話と汎神論

「国生み神話」は、国土の誕生だけではなく

この世の全ての物や人…万物全ての誕生の源である

 

その全ては、イザナギとイザナミの二柱の髪によって生み出された

「神の生み子」である

 

日本の国土や、あらゆるものに「神」の血が流れている

国土は、もちろん、海、川、草木などの植物、人、動物…

そして、もちろん微生物にも、「神」の血が流れていて

全てのモノに神が宿る「汎神論」の世界である

また、その世界は「八百万の神々の国」とも言われている

 

「国生み神話」を読むと、気がつくだろうが

国生みの主役は、二柱の神ではなく

「女神イザナミ」が主役であることがわかる

 

イザナミは、この世のあらゆるモノを生み続け

息絶え絶えの状況でも、生み続けることは止めないのである

 

すなわち、私達は、イザナミの子孫なのである

 

私達は、ごく自然に
亡くなることを想像すると

「土に帰りたい」とか、「故郷の大地に帰りたい」などと発言する

 

これは、自分の亡骸を大地に帰したい…という感情であり

大地に帰すこと、すなわち
イザナミは日本の「国生みの母」であることから

太古の「亡き母=妣(はは)」なので

私達は、亡くなると「妣の国」に帰ることを強く望む

そして、妣の大地に帰るところが、大地に建つ「お墓」ということになるのだ

 

 

ひとつ、日本の国の成り立ちで
おもしろい言葉の表現方法がある

 

日本の思想は

国は、「うむ(生む、産む)」または、「なる(成る)」

というように表現する

 

また、西欧では「つくる(創る)」と表現する

 

これは、日本の思想史を理解する上で

非常に役立つ、重要なキーワードである

 

 

そして、この「うむ」「なる」でも
言葉に違いがあり

 

神話には、多くのモノが出てくるが

イザナギと、イザナミが男女の性的な交わりをして生んだ
神々や、モノは「うむ」と表現され

 

それ以外に
高天原に初めて登場する神や

イザナギ一人だけの世界に登場する神は
男女の交わりがないので、必ず「成る(なる)神」という表現になっている

 

その逆に西欧では

国は、神が創造したもの…という思考である

いわゆる「一神教」であり

多くの神々によって全てのモノが存在する日本のような思想は

「汎神論」「多神教」と呼ばれている

 

昔、この汎神論は、西欧の宗教と比べて未発達である…
と考えられてきたが

最近では、その評価に変化が見られ

「神話は、人類の宝庫である」との見方も強くなってきている

儒教における先祖祭祀と祖先崇拝

古代の中国は、アジア圏において先祖祭祀において先進国であった

近隣の、日本や朝鮮半島が、先祖祭祀をないがしろにしていた…というわけではなく

先祖祭祀や、祖先崇拝の習慣は存在していた

中国が先進国である…という意味には

先祖祭祀や、祖先崇拝を思想として体系化し、それを記録に残していた…という意味である

この概念から考えると、日本や朝鮮半島は、先祖祭祀における後進国であると言わざるをえない

 

古代中国は、現代まで約3000年以上もの間

家庭生活はもちろん、政治にいたるまで常に先祖祭祀や祖先崇拝は重要な行事であり、正当性を持って行われてきた

 

ここでの中国の先祖祭祀や祖先崇拝と比較のため

儒教の先祖祭祀や祖先崇拝と比べてみる

 

ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは

儒教は、カテゴリーとして「宗教」には属さないと考え

儒教は、世俗社会の「道徳倫理」であると解釈している

 

以下、マックス・ウェーバーの言葉を引用する

 

「救済の思想などは、儒教的倫理にはもちろんまったく存在しなかった。

儒教徒は、社会的な無作法というあさましい野蛮から救済されること以外に、霊魂の輪廻からも、あの世で受ける殃罰からも(両者を儒教は知らなかった)、生からも(これを儒教は肯定していた)、与えられた社会的世俗からも(この世俗のチャンスを儒教は自制によって抜け目なくものにする考えだった)、悪または原罪からも(原罪というものを儒教は知らなかった)、その他のなにかあることからも、「救済」されることを願わなかった。「罪」であると儒教にみなされることができたのは、ただ、孝弟というひとつの社会的な基本義務の侵害だけであった」

 

このように、儒教は、現実生活での倫理に従い義務として

先祖祭祀や祖先崇拝を行ってきた

 

先祖祭祀が死後の問題として、死後の世界が思想的に深められることはなかったので

儒教は、宗教ではない…という考えである

 

仏教は、輪廻転生や因果応報の考えで

儒教の欠陥を補った形になったのだが

 

そのような基本問題が儒教の先祖祭祀や祖先崇拝には見られないのである

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