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2013-10

死を迎える覚悟とお墓の意味

宗教観の薄くなった現代では

とかく死に対するネガティブな感情が大きくなってきた

 

物質科学至上主義の世の中では

死は「無」であり「絶望」と捉えられることが多い

 

しかし、死は誰もが平等に訪れる避けられないものである

この世に誕生した時から人を含めて全ての生命体が死へのカウントダウンをスタートさせる

 

思想の違いや、哲学の違いなどで

その死への捉え方は大きく変わってくる

 

絶望の淵に立つもの

覚悟を決めるもの

残された家族や友人へ言葉を伝えるもの

悟りを開き受容するもの…

 

どのような心のあり方であったとしても

必ず訪れるものならば

穏やかに逝きたいと願うことも

人間としての欲求である

 

そして、その死の迎え方は

残されたもの達が残りの人生を生きていく上でも大きな影響を及ぼす

 

愛する人の死を受容するためには

先に旅立つ人間の哲学も大きく影響するからだ

 

満足した人生を送った人の人生の最期は

残されたもの達の後悔を少なくする

 

そして、その残されたもの達の想いを

時間をかけて消化させていく意味でも

お墓の存在が役立つことも多い

 

お墓の意味は多々あれど

残されたもの達が、故人の死を消化させる時間と向き合うために

有形の存在が、とても癒されることになるのは

否定しがたい事実なのである

 

散骨を希望する人の心理

 

 

ここ最近、散骨希望者が増えているという

自分の死後、墓に埋葬することなく

骨は、粉砕して海や山に散骨する…

 

故郷の海に蒔いて欲しい…

誰にも迷惑をかけたくない…

 

その思いは様々だ

 

墓を持たない選択は

自分の死後、子孫がお世話に来てくれない不安や

その墓を守るという負担を軽減させたい

身寄りがいないので、無縁仏になるくらいなら散骨して自然に返る方がいいと、墓を所有するより、所有しないことにメリットを感じることで発生する

 

ほかにも、ファッション的な感覚で捉え

何にも縛られない自由な発想の終着点

と、いう考えもある

 

散骨に対する考え方は

ライフスタイルが、より個人的になってきている結果だろう

 

自分の体だから、最期はどうしようと自分の自由…

 

確かに、選択の自由もあるのだが

ここで少しデメリットも考えてみたい

 

自分の体や心が自分のモノであって

その選択は他人の意見の入る余地がない…という考えは

一見、自分で全ての責任を取る、素晴らしい考えにも思えるかもしれない

 

しかし、自分の人生は自分だけのもの…という考えは

物質至上主義特有の、目の前の出来事のみに関心を示す特徴のように思う

 

生命は、過去と未来…そして全宇宙の一部であるという考えでいくと

全てを自分でコントロールしてもいい…という考えには至らない

 

自分のモノのように見える体や心、所有する物質も

所詮、宇宙の一部であり、一時的に借りているものであり

その生命体は、先祖代々受け継がれて、存在しているものと考えると

自分の体だからと言って、独断と偏見で決めるのは少し違うようにも思う

 

自分の子孫が、自分が存在するこのと意味を

過去に遡り、先祖の存在を肌身で感じることができるなら

そこに思いを馳せる機会の提供としての墓の存在は

自分の自由意志で動かしていいものとは言えなくなってくるのではないだろうか?

 

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