Home > Archives > 2017-07

2017-07

雄略天皇の強権と吉備氏の反乱

5世紀後半になると朝鮮半島は複雑な時代になっていた
高句麗が百済と新羅を圧迫していた

日本書記の中では
この朝鮮半島の3国よりも日本が上であると書かれていて
雄略天皇の外交の様子を伝えている

百済とは友好的な関係であったが
新羅との関係は複雑だった

高句麗に裏切られた新羅を助け
その見返りとして新羅王に天皇に逆らわないように促した
しかし、従わない新羅に対し
紀小弓宿禰(きのおゆみすくね)らを派遣し討たせた

日本は朝鮮半島に対し領土的野望を持っていたが
日本軍の内紛が原因で失敗に終わることになる

やがて高句麗が百済の首都ソウルを陥落させて
百済は滅亡の危機を迎えることになる

雄略天皇は久麻那利(こむなり)を送って復興させた
そして日本にいた末多王(またおう)に百済の王に命じた

雄略天皇の時代は独裁的な王権だったと日本書記は伝えている
気に入らないことがあると
すぐに臣下を処刑してしまう恐怖の天皇として
強権を振るう専制君主制だった

その専制君主制に対して反抗したのが岡山県を支配していた吉備氏だった
吉備氏は、孝霊天皇の皇子である吉備津彦(きびつひこ)を祖先に持ち
日本武尊、応神、仁徳天皇に妃を出すなどした大豪族だった

雄略天皇の専制君主に不満を抱いていた吉備臣前津屋(きびのおみさつきや)は
その鬱憤を晴らすために
強い鶏を自分に見立て、弱い鶏を雄略天皇に見立てて
鶏たちを戦わせていた

このことは雄略天皇の怒りに触れ
即座に前津屋一族は葬られてしまう

雄略天皇は、怒りの矛先をその同族である田狭にも向け
田狭を半島南部の任那に追いやり、妃の雅媛(わかひめ)を奪った

それを知った田狭は新羅と共に雄略天皇への反乱を企てた

雅媛が吉備系の皇子である星川を立てて反乱を起こす
吉備氏はこれを支援したが
大伴室屋(おおとものむろや)によって鎮圧される

このことによって大和王権成立の時からの大豪族だった吉備氏は没落した

意祁と袁祁②

正式な皇位継承者として都へやってきた意祁と袁祁に
平群氏の志毘臣(しびのおみ)が反抗的な態度を示した
袁祁が気に入った娘を横取りしてみたり、歌で挑発したりした

調子に乗った志毘臣は意祁と袁祁の殺害を計画するような歌を
臣下の前で歌ったりした

平群氏は雄略天皇の時代に大臣となり
葛城氏にかわって力を付けてきた豪族だった

平群氏の反抗的な態度は
葛城氏の血縁の兄弟が突然出現したことによる反発だった

現在は弱体化している葛城氏だが
ここで意祁と袁祁の兄弟が皇位につけば
再度力を付けて台頭してくるかもしれないとも考えたのだろう

意祁と袁祁は相談して兵を送り志毘臣を葬った

何かと邪魔をしてきた志毘臣の存在がなくなると
皇位継承への道が開けてきた

意祁と袁祁の兄弟は話し合いの結果
袁祁が皇位を継承し第23代顕宗天皇が誕生した

皇位についた顕宗天皇は殺害された父、忍歯の遺骸を探すことから始めた
殺害現場を目撃した老婆の証言をもとに
ようやくばらばらにされた遺骨を探し出した

遺骨発見の功労者である老婆には褒美を与えた

そして苅羽井で自分たちの食事を奪った豚飼いの老人や
父の殺害に関与した蚊屋野の韓岱には処罰を下した

そして、顕宗天皇は父の殺害を企てた雄略天皇がどうしても許せなかった
しかし雄略天皇はすでにこの世にいない
そこで、雄略天皇の陵を破壊して非道に報いようと考えた

その計画を引き受けたのは兄の意祁だった
しかし意祁は陵の一部を壊しただけで帰ってきてしまい
これ以上、破壊するのはよくないと顕宗天皇を説得した
顕宗天皇は意祁の説得に応じることで報復の連鎖が絶たれることとなった

安康天皇の時代から続いてきた骨肉の争いも幕を閉じたのだった

古事記の物語はここで終わる
あとは、仁賢天皇から推古天皇までは
簡単な紹介となっている
古事記は文字通り古い時代の天皇家の話
あとは古事記の書かれたころから見たら近代史として扱われる

Home > Archives > 2017-07

 

このページのTOPに戻る