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2017-09

仏教伝来①

日本に仏教が伝来してきたのは
欽明13年(552年)のことだった

百済の聖明王から金銅の仏像が一体と経典が届いた

仏像と経典の扱いに困った欽明天皇は
群臣を集めて、どうしたらいいいか相談をした

大臣の蘇我稲目(そがのいなめ)は仏教を受け入れるべきだと主張した
物部尾輿(もののべのおこし)は異国の神など受け入れるべきではないと主張した

対立した2つの意見を前にして
欽明天皇は判断できずに困り果て
仏像を蘇我稲目に渡して、個人的に礼拝することを許すことにした

その後、日本国内で疫病が流行し
その原因は異国から宗教を持ち込んだからだと物部尾輿は言って
欽明天皇の許可を得て、仏像を難波の堀江に捨ててしまい
祀っていた寺まで焼き払ってしまった

この時代の仏教は、主に中国や韓国で信仰されていた
渡来系の氏族を支配下に置いている蘇我稲目は海外の事情に精通していたので
仏教を柔軟に受け入れたと考えられる

仏教をもとにして巻き起こった争いは
もともと水面下では対立していた蘇我氏と物部氏の対立が表面化したにすぎなかった

古くから朝廷に仕え、祭祀や軍事を担ってきた物部氏は
雄略天皇の時代に政権の重要な位置を占め
言わば名門である

一方、宣化天皇の時代に稲目が大臣となった蘇我氏は
老舗の物部氏に比べ新興勢力に過ぎない

お互いの相性の悪さは歴然だった

物部氏と蘇我氏は代替わりをしても
二大勢力間の反目は続いていった

お互いにお互いを排除して
朝廷内の権力を一手に握りたいと戦々恐々としていた

欽明天皇が崩御して、その子が第30代の敏達天皇となった
敏達天皇は仏教の受け入れに反対派だったが
蘇我馬子は皇后に自分の姪の炊屋姫(かしきやひめ)を送り込み
(炊屋姫はのちの推古天皇)
権力の基盤を着々の築いていった

蘇我馬子は、再び百済からやってきた仏像2体を祀り
3人の尼を出家させて、塔を建設して仏道に精進した

だが物部氏の後継者である、物部守屋が
その仏像や塔に火をつけた

直系ではない継体天皇の即位③

最後の地方豪族の反乱であった磐井の乱から3年
継体天皇は82歳で崩御した

継体天皇の後継者には長男の勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)が選ばれた
勾大兄皇子は第27代の安閑天皇となったが
在位してたった2年で崩御してしまう

次の天皇には安閑天皇の弟である桧隈高田皇子(ひのくまのたかだのみこ)が即位し
第28代の宣化天皇となる
しかしこの宣化天皇も即位してたった4年で崩御してしまうのだった

この2天皇は在位期間が大変短いので
日本書記での紹介も少ないのだが
安閑天皇に関して興味深い記述がある

磐井の乱から進められてきた直轄領の設置は
朝廷の経済的な力をしっかりと付けて
一方で地方豪族の力を弱めていくようにして
地方支配をより強力に推し進めるのが目的であった

このころ、各地の豪族を国造(くにのみやつこ)に任命し
朝廷に奉仕させる地方行政官制度が整っていった

そして宣化天皇は大臣に蘇我稲目(そがのいなめ)を任命する
ここから、いよいよ蘇我氏が登場してくることになる

宣化天皇が崩御して第29代天皇は
継体天皇と皇后の手白香との間に生まれた
欽明天皇が即位した

安閑天皇と宣化天皇は継体天皇が北陸地方にいたときに生まれた子たちで
この2天皇の母親は地方豪族だった
それに比べて欽明天皇の母は仁徳天皇の子孫であり
位的にも正当な血筋であるといえる

安閑、宣化と欽明は
継体天皇の崩御後すぐに生まれた並立する別の政権だったという説もある

安閑と、宣化は大伴金村が担ぎ、それに対抗するかたちで
蘇我稲目が欽明天皇を推して擁立させたといわれている

安閑天皇と宣化天皇がともに短期間で崩御し
結局、政権は欽明天皇に一本化されるが
欽明天皇が即位すると
大伴金村は30年前に起こった任那4県への百済への割譲を承認した件を持ち出され失脚した

吉備氏や平群氏らを倒して政権の中枢にたどり着いたが
これを機会に勢いは失われた

この安閑、宣化と欽明はの並立する政権の件についての説は批判も多い
しかし、大伴氏と蘇我氏の間で暗闘があったことが事実として捉えられ
勝者となった蘇我氏は欽明天皇に妃をおくり
それ以降政権に大きな力を持つ大豪族となっていった

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