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仏教伝来①

日本に仏教が伝来してきたのは
欽明13年(552年)のことだった

百済の聖明王から金銅の仏像が一体と経典が届いた

仏像と経典の扱いに困った欽明天皇は
群臣を集めて、どうしたらいいいか相談をした

大臣の蘇我稲目(そがのいなめ)は仏教を受け入れるべきだと主張した
物部尾輿(もののべのおこし)は異国の神など受け入れるべきではないと主張した

対立した2つの意見を前にして
欽明天皇は判断できずに困り果て
仏像を蘇我稲目に渡して、個人的に礼拝することを許すことにした

その後、日本国内で疫病が流行し
その原因は異国から宗教を持ち込んだからだと物部尾輿は言って
欽明天皇の許可を得て、仏像を難波の堀江に捨ててしまい
祀っていた寺まで焼き払ってしまった

この時代の仏教は、主に中国や韓国で信仰されていた
渡来系の氏族を支配下に置いている蘇我稲目は海外の事情に精通していたので
仏教を柔軟に受け入れたと考えられる

仏教をもとにして巻き起こった争いは
もともと水面下では対立していた蘇我氏と物部氏の対立が表面化したにすぎなかった

古くから朝廷に仕え、祭祀や軍事を担ってきた物部氏は
雄略天皇の時代に政権の重要な位置を占め
言わば名門である

一方、宣化天皇の時代に稲目が大臣となった蘇我氏は
老舗の物部氏に比べ新興勢力に過ぎない

お互いの相性の悪さは歴然だった

物部氏と蘇我氏は代替わりをしても
二大勢力間の反目は続いていった

お互いにお互いを排除して
朝廷内の権力を一手に握りたいと戦々恐々としていた

欽明天皇が崩御して、その子が第30代の敏達天皇となった
敏達天皇は仏教の受け入れに反対派だったが
蘇我馬子は皇后に自分の姪の炊屋姫(かしきやひめ)を送り込み
(炊屋姫はのちの推古天皇)
権力の基盤を着々の築いていった

蘇我馬子は、再び百済からやってきた仏像2体を祀り
3人の尼を出家させて、塔を建設して仏道に精進した

だが物部氏の後継者である、物部守屋が
その仏像や塔に火をつけた

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