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大化の改新

姉の皇極天皇から史上初の「譲位」という形で皇位を受け継いだのが
第36代の孝徳天皇である

孝徳天皇は蘇我氏が滅んだことによって
ただちに改革に乗り出した

従来の大臣・大連制にかわる役職として
左大臣・右大臣職を新設して
中国にならって元号も採用した
そして日本で最初の元号を「大化(たいか)」とした

難波に遷宮を敢行し中国風の壮大な豊碕宮(とよさきのみや)を築いた

孝徳天皇は皇位に就いて半年後に
改新の詔(かいしんのみことのり)を発布した
これは、豪族の私有地や私有民を認めず
公地公民制への移行を決めたもので
畿内と地方の行政組織の整備を進め
権力の一元化を目指すものだった

中央集権と律冷制への移行を掲げたこの改革を
大化の改新という

大化の改新は、その他にも国民から訴状を受け付ける目安箱を設置したりと
改革に突き進んだ

日本書記では、中臣鎌足が孝徳天皇を皇位に就けるために
乙巳の変を起こしたとも書かれている

しかし、この大きな改革である大化の改新は
後世に脚色されたものではないかという意見もある

しかし孝徳天皇が唐をお手本として改革を行ったことは事実であり
豊碕宮も唐を参考にして建てられたり
そこで催される儀式も唐風に変えるほどの熱心さだった

その当時は、唐と新羅が連合し、百済と高句麗と敵対関係になっていた
孝徳天皇は、当然唐派で
百済を支持していた蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子を倒したというのが
乙巳の変であるという見方もある

孝徳天皇が皇位に就いて9年目になったころ
前天皇である姉の皇極と中大兄皇子が難波を去り臣下を連れて飛鳥に帰ってしまう事件が発生した

孝徳天皇は一人で難波に残り、病気になってさびしく崩御した

この突然の都移転は
新羅の使節が唐の服装をして現れたことが原因だったようだ

新羅は唐の属国的な存在となったことを察した
皇極と中大兄皇子が孝徳天皇の親唐志向に危機感を持ち
日本も新羅のようになってしまうことを危惧して判断した都移転だったようだ

その皇極は、その後再び皇位に就き
第37第斉明天皇となった

前任の時とは打ってかわり北海道や東北に3度にもわたって蝦夷遠征軍を派遣するなど
強権をふるう天皇となった

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