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行方不明者の墓~一家族の決断~ Archive

行方不明者の墓~一家族の決断~【8】最終回

5月の法要に向け、家族が動き出した

そもそも行方不明者を死者として扱い、法要を行なってもよいものなのか?

お世話になっているお寺に聞いてみた

返事は「住職に聞いてみないと…」と、言葉を濁したが

本意ではない様子が伺える

「遺体もないのに、法要を行い、戒名を付けてもいいものかどうか…」

 

おそらく「縁起でもない」という意見もあると思う

失踪者は生きている可能性も「0」ではないのだ

 

北朝鮮の拉致事件を見ていて思った

国民の大半は、30年近くの時を経てまさか失踪者が戻ってくるとは!と驚きだったのではないだろうか?

みな一様に諦めムードも感じられ

失踪者家族達がしきりに生存に望みを託し

真相の究明を訴える

そして、一部の生存者が戻ってきたのだ!

感動的な再会のシーンを見て、本当に良かったと心から思った

 

法要を行い、戻ってきたらどうするのか?

そんな考えもよぎったが

それは、それで嬉しいことじゃないか!!

 

人は…世間は…

生きているか、死んでいるかわからない人に対して

「死」の可能性を言及することはタブーとされている

 

しかし、失踪者家族は

そのことに縛られ続け

あてもないのに、望みを捨ててはいけない心情に駆られる

 

失踪者を死者と扱うと

悪人になったような気分になってしまうのだ

 

いつまで続くかわからない

目的の無い道は

生きていく人間を束縛していく

 

失踪した弟を死者として供養することは

生きている可能性を否定した薄情者なのだろうか!?

 

私は…

一旦区切りをつけて

もし生きていたらその時に考える…という結論を出した

 

否定する人もいるかもしれない

しかし、世論のために生きているわけじゃない

自分が納得すればいいのだ

 

そして、私は今後

もし、失踪家族に出会って

その家族が、失踪者に縛り続けられる人生を送っていたら…

解決策の一つとして、私の経験を話していきたいと思っている

行方不明者の墓~一家族の決断~【7】

 

「仏壇までは買えないけど、供養の場を整えたい。弟の写真を送ってもらえないだろうか?」

と、私は母に言った

 

行方不明の…死亡した証拠もない弟を供養する-

誰に認められなくてもいい

私一人の儀式でもいい…

そう思っていた

 

電話を切って、しばらくしたら

再度、母から電話がかかってきた

 

「お父さんが『もしそうだったとしたら、来年は23回忌だ。家族で法要でもしよう』って言ったの。施設に残っている戸籍を除籍して、認知死亡届を出して、お坊さん呼んで、戒名を付けてもらおうか!」

 

母がそう言った瞬間

 

私は、なぜだかわからないけど号泣した

「お母さん!ありがとう!…ありがとう!ありがとう!!」

私は、泣きながら母にお礼を言っている

 

母も泣いている

「ありがとう。なんだか、ホッとした。ありがとう…」

 

私が母にお礼を言うのは、ちょっとおかしい…

おそらく、弟が私の口を使って、母にお礼を言ったに違いないと思った

 

弟は、知的障害があって、話はできなかったが

きっと、こう言いたかったのかもしれない

【お姉ちゃん、ボク、もうそこにはいないんだよ。はやく気づいて!お父さんとお母さんに教えて!!ボク、寂しいよ~!!お姉ちゃん、どうして無視するの~?】

 

そして決意した家族に、どうしてもお礼を言いたかったのかもしれない

 

翌日、私は近くの仏具店に足を運んだ

おりんのセットと、ロウソク立て、香炉、花瓶などのセットを購入した

ホンモノ(?)は、実家で用意すると思われるので

私は、簡素に整えた

私の身の丈に合った、安くてシンプルだけどステキな道具だ

 

22年間も無視してしまったこともあり

お詫びも兼ねて、朝晩は必ずお参りしたいと考えていたので

身近に用意しておきたかった

 

ホームセンターで

小さなテーブル、座布団、道具を置くランチョンマットも購入

 

家に帰って、道具を整える様子を見て

小学生の3人の娘達は不思議がる

私は、正直に説明をした

 

「22年間も放っておいてしまったから、今日から22年間分のお参りをしたい。お母さん一人では、間に合わないから手伝ってくれるかな?」

 

小学校6年生の長女が自分で作ったゼリーを冷蔵庫から出してお供えしてくれた

 

その日、みんなで1回目のお参りをした

 

 

なんとも言えない安心感が体全体に広がった

 

地に足をしっかりつけて人生を歩んでいけそうな予感がした

 

私は、その日を境に、のどの圧迫感がすっかり消えてしまった

行方不明者の墓~一家族の決断~【6】

今から、2年ほど前から

私は弟の話をすると、喉に圧迫感を感じるようになった

 

ストレスなのか、霊的なものなのかはわからないが

誰かに弟の話をすると

喉に圧迫感を感じ、ひどい時は声が出なくなってきた

 

1年ほど前からは

喉の圧迫感と、倦怠感から

弟の話をしたあとは、少し休む必要があるほどになった

 

私は少しずつ弟の話をするのを控えるようになる

 

先々の戸籍の問題などを考えると不安になるので

あまり考えないようにもしていた

 

私は、両親に少しずつ

弟がこの世にはいないと感じることを話始めていた

両親も、20年という月日が流れ

この問題に、落ち着いて話をするようになってきている

 

「どうなんだろうね~」

と、親にしても

もしかしたら生きていないのかもしれない

と感じることもあったのではないかと思う

 

そして、私は様々なタイミングが重なり

弟の「死」を正式に引き受ける…

つまり供養したらどうだろう?と考え始めた

 

そのタイミングは、3つあった

1つは、祖母の死

1つは、私がお世話になっている、コンサルタントの先生が、先祖の存在を大切にされる方で、その方の指導を受けていたこと

1つは、ヒーリングを行う人が、弟の死を明言したこと

 

私は、ヒーリングの云々を理屈で理解することはできないが

その3つのタイミングが重なった時

弟を供養したらどうか?と心の奥底から湧き上がってきたのだ

 

供養することによって何が起るのかは、わからない

しかし、私達の-特に私の中で何かが変わるような気がしていた

 

-まずは、手を合わせ、お参りをする場所が欲しい-

 

20年以上も止まったままだった失踪問題に

初めてと言ってもいいくらい

何かが動き出した

 

私は勇気を出して親に電話をした

 

「仏壇までは買えないけど、供養の場を整えたい。弟の写真を送ってもらえないだろうか?」

 

この一言は、家族にとって

 

大きな大きな一歩となったのだ

行方不明者の墓~一家族の決断~【5】

 

失踪家族の存在をどうするのか?

そんな答えはすぐには見つからなかった

 

ただ、このままにしておくと結果はおのずと見えてくる

おそらく、家族はこの問題に言及しなければ

時間の経過で、両親がこの世を去ることになり

その場合、長子である私が

弟の身元引受人となる可能性が高い

 

いつも母が語る

「弟が見つかったら、私達が死んだ後、お姉ちゃん(私)に面倒を見てもらうから○○しなくちゃね」

というように、見つかることが前提の会話が続くのだ

その場合「もし、死んでたらどうするの?」なんてセリフはタブーだ

 

両親がこの世を去った場合

判断は、私と妹にゆだねられることになるだろう

戸籍はそのまま存在するのだろう

高齢を向かえた私達は、弟の戸籍をどうしようと考えるのだろうか?

失踪者は、人間の限界と思われる年齢まで放置されるのだろうか?

 

2010年の夏は

所在不明老人がマスコミを賑わした

常識では考えにくい年齢の人まで登場し

人は、死亡届けが出されなければ

存在していることになるのか?と

人事とは思えないニュースに判断を迫られるような気がしていた

 

おそらく、私が死んで

弟の戸籍がそのまま残ってしまったら

弟は、戸籍上では非常に長生きすることになる

 

誰かが、この沈黙を破り

弟の失踪事件に決着をつけなければ

いつまでも終わらないのだ

 

あやふやな希望だけを持ち

生きていかなければならないのは

とても残酷な話なのである

行方不明者の墓~一家族の決断~【4】

私は、以前から弟が生存していないのではないか?

と感じていた。

私は、霊能者でもなんでもないので

漠然とした勘でしかないのだが

しかし、もうこの世にはいないのだ…と感じるのだ

 

弟が生存していないかもしれない…というのは

家族にとって不謹慎な話なのだ

誰かが、「死んでいるかも…」と、思ったとしても

不謹慎だからと、言ってはいけない暗黙のルールがある

それが、さらに家族を苦しめているのだ

死の可能性をちらつかせたりすると

その者は、あっという間に薄情者のレッテルを貼られそうな気がしてしまうのかもしれない

 

しかし、5年ほど前から

私は、弟の死の可能性について言及し始めた

原因は不明なのだが

弟の話をすると決まって

喉の辺りに圧迫感を覚えるようになったのだ

これが何を意味するのか

霊的なものなのか?ストレスなのか?

私にもよくわからないまま

だた、何かしらの形で決着を迫られているような気がしていた

 

だが、父は死の可能性を言及することに嫌悪感を示していた

息子に生存していてほしいと願う親心はもちろんだが

父は子供のころ、占い師の誘導により母親が蒸発した経験を持つため

それがトラウマとなり

オカルトや、スピリチュアル的な話に対して

別な感情を持って嫌悪感を示すようなのだ

 

家族の間でも複雑な感情を持って

それぞれが、弟の失踪事件に対峙し

月日を重ね、その感情にも変化が見られてきている

 

私も、死の可能性を言及した後の解決策も持たず

みんなが、もてあまし気味にしているのと同時に

失踪事件を知っている他人は

口に出すことすらタブーとなってしまい

弟の存在すら薄れ始めてきている

 

もし、遺体がある状態で弟が死んだならば

20年後に、親戚や知人は

今のように、触れずに居続けることはあるまい

葬儀を行った死者なら

時と共に思い出として語られるに違いない

 

しかし、みな腫れ物にでも触れるかのように

弟のことは、誰も何も語らず

家族のみが生存の可能性のみ言及する

戸籍があるのに、誰にも語られない存在

失踪者は、残った者の思い出にすらなれないもののなか!

 

この理不尽な思いに答えを出し

同じ思いを抱いている失踪者家族に助言ができるように

逃げずにこの問題に向かってみようかと考え始めたのは

今から2年前の2008年のことだった

行方不明者の墓~一家族の決断~【3】

弟が失踪してから10年ほどは

陰膳を用意していた

弟の席に食事を用意して

家族みんなで食事をする

 

「陰膳」という存在を始めて知った

食事の時、弟が座るであろう場所を歩くと

ひどく怒られた

 

最初は、弟の食事は捨てられていたが

家族が食べてもいいらしいという情報を聞いてからは、母が弟の陰膳を食べるのが我が家の食事のスタイルとなった

「いただきます!」のあと

父と私と妹が食事をする、一拍おいて(弟が食べた後)母が食事をスタートさせる

 

私は、たまに弟の夢を見るようになった

夢を見てカレンダーを見ると、弟の誕生日であることがほとんどである

 

行方不明者の夢を見る時

年を重ねていることが確認できると、その人は生きている

行方不明の時のままで夢に出てくると、その人は死んでいる

と、いう迷信の存在を知ったので

母に弟の夢を報告する際には

「大きくなってたよ」と伝える

「じゃあ、生きているんだね」と母も喜ぶ

夢の中の弟が大きくなっていたのかどうかわからない

ただ、母が喜ぶのでウソをついた

 

陰膳や、夢の迷信など

行方不明者が家族にいなければ知らなかったことばかり

恐らく、戦争不明者の家族などが

希望を捨てないために、考え出した習慣なのだろう

 

行方不明とは、残酷である

ある意味、「死」よりも家族を憔悴させる

死んでいるのではないか?という恐怖と

生きているのではないか?という希望の狭間で

長い時間と心が支配される

 

「死」というものは

長い時間をかけて、受け止められていくものだ

しかし、行方不明というものは

気持ちの落としどころ見つけられず

長い時間を過ごしていく…

 

戸籍上、弟は生存しているのだ!

しかし、姿は見えない

じゃあ、いつを区切りに除籍をすればいいのか?

 

人の平均余命で割り出すのか?

認定死亡の届出が可能なのは

失踪から7年と定義されている

 

失踪から20年

新しい方向を考えるため

私たち家族は、現実を直視しはじめた

行方不明者の墓~一家族の決断~【2】

とりあえず学校には事情を説明して
しばらく学校を休むこととした

こんなことを親に言うと
ショックを受けたり、怒られたりすることが目に見えていたので言わなかったが
私は、なんとなく弟がもう帰ってこないような気がしていた

携帯電話などは無い時代だ
事情を知った知人などから電話がかかってくる
近所では、捜索隊が組まれ
みんなで探しに行こうと計画を立てている
少しでも情報を集めようと新聞に記事にしてもらった
よくわからない人が、よくわからない占い師のような人を連れてきて
「急がないと大変なことになる!」
と騒いでいる

人は、人が死ねば
対応の方法は知っている
しかし、当然ながら行方不明者に対する対応の仕方を知らない
マナー本にも、葬儀のマナーは書いてあるが
行方不明者の家族の対応方法など書いていない

どうしたらいいかわからないが
何もしないなんて考えられないのか
様子や詳細を知りたいのか
新聞に掲載と同時に、電話の数が増えていく
対応するのは、家で留守を任されている16歳の私だけだ

親に報告するためにも
何月何日何時に、誰から電話があったのかメモに記載していく
きっと親は、あとから
この人達にお礼と報告の電話をすることになるのだろうと思った

この電話は、ものすごい数だった
私の小学校の担任の先生やら、遠い親戚やら
知らない人もいっぱいいた
心配してくれることはありがたいことだが
同じことを説明している私は、疲れてしまった

昼は電話の対応で疲れ
夜は金縛りで眠れない
たまに帰ってくる親も疲れている

家の中は、不思議な緊張感が漂い
日常とかけ離れた空気が流れている

警察や自衛隊が出動して行われた捜索も
何日かして打ち切られた

あきらめきれない親は
週末には、施設のある町に家族で出かけ
車を走らせながら弟を探した
「よそ見をしないで、集中して!ホラ!家の影とかにいないか、ちゃんと見るんだよ!!」
と母は捜し方の指導をする

私は、もう弟はいないのではないか?と漠然と感じていた
探したって無駄だと思った
しかし親には言えない

現実的に考えて
15歳の少年が、山の中で生き続けることは考えにくい
ましてや、弟は知的障害者だ
一人で生きていくことは不可能だ
生存の希望が考えられるストーリーを作り出していく
誰かに連れ去られ育てられているのか?
北朝鮮の拉致問題なのか?

「弟は、死んだのではないか?」
と、いう言葉は家庭では絶対タブー
みんな頭の中でよぎりながら、口には出さずに
20年が経過した。

行方不明者の墓~一家族の決断~【1】

私の弟は
行方不明者である

知的障害者だった弟は
中学の途中から、親元を離れ全寮制の施設に入所した
言葉を発する人もいたが、弟は擬音を発するのみ
こちらの言うことは理解できるが
自分の意思は伝えられない

弟が中学を卒業して間もないころ
北海道は新緑の季節
施設では、敷地内の畑で春の作業を行っていた。

そこで突如、弟は失踪した-

人口、2000人強の小さな町で
一人の少年が失踪
しかも、本人は話すことができない知的障害者である

車で2時間ほどの親元に電話で連絡が入ったのは、失踪から約3時間経過した
午後6時ころ
最初はすぐに見つかるだろうという施設職員の願いもむなしく、親に連絡する決断をしたのだろう
「どうして、もっと早く連絡をくれなかったのですか!?」
と親は怒っていたが
このような子供達の入所施設である
短時間の失踪騒ぎは1度や2度ではない
しかし、3時間経過して
事は、普段の迷子騒ぎではない様相をかもし出していた
5月といえども北海道の春の夜は冷え込む
軽装のまま、山に入れば、死を意味することは、みんなわかっていた
すぐに警察に捜索願いが提出され
捜索隊が、山に入っていく

両親は、施設のある町に入り
高校2年生の私と、小学生の妹は家で留守を守ることになった。

私は、小さいころから年子の弟と一緒にいた
知的障害の疑いがでてきたのは3歳も過ぎたころ
男の子は言葉が遅いというけれど
あまりにも遅すぎることを心配した母が
児童相談所の門をくぐった

いたずらばかりする弟
普通ではない弟

私は、「普通の弟が欲しかった!」「こんな弟いなくなればいい!!」と思ったりしたこともあった

弟が、失踪した日の夜
自分が思った言葉を感じ、弟はいなくなってしまったのではないか?
と、恐怖に押しつぶされそうになりながら
眠れない夜を過ごした

平成元年5月18日の夜

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