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2017-11

乙巳の変①

推古天皇が崩御した後
皇位の継承をめぐって田村皇子(たむらのみこ)と聖徳太子の息子の山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ)が対立した

父である蘇我馬子から権力を継承した蝦夷(えみし)は
反抗的な甥の山背大兄皇子よりの蘇我宗家に従順である田村皇子を推して
第34代の舒明天皇とした

その舒明天皇が崩御すると
蝦夷の子である蘇我入鹿は山背大兄皇子を無視して皇后の宝皇女(たからのひめみこ)を第35代の皇極天皇として即位させた

この皇極天皇は敏達天皇の曾孫にあたるが
皇統からは遠く、本来は天皇になれるような身分ではなかった

皇極天皇は蝦夷と蘇我入鹿親子にとっては操り人形のような存在で
逆らったら殺害も厭わない様子で
その後、蝦夷の甥で舒明天皇の子である古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)と
取り換えでもいいと思われていた存在だった

実際に、古人大兄皇子を天皇にする準備を陰で進めていて
皇極天皇は、蘇我氏の政権私物化のための存在だった

その政権私物化の態度は度を超すものがあり
先祖を祀る祖廟の完成祝の際に天皇家にだけ許されていた舞を群臣たちに披露してみたりと
天皇家さながらに振る舞っていた

自分たちの墓を作る時も豪族たちの私有民を勝手に使ったり
天皇の宮を見下ろす場所に蘇我親子の豪邸を並べて建てたりしていた
その豪邸を宮門と呼ばせたり、自分たちの子供を王子と称したり
完全に皇族気取りの態度だった

ついに蘇我入鹿は古人大兄皇子を天皇にするために
山背大兄皇子の殺害を計画しはじめた
皇極天皇に見切りをつけはじめたのだった

蘇我入鹿は山背大兄皇子が住む斑鳩宮を襲った
山背大兄皇子は妻子を連れて生駒山に逃げたが
法隆寺に戻ったところを兵に囲まれ自害した

山背大兄皇子が自害したとき
突然空に舞楽とともに五色の幡と絹笠が現れ
それが黒い雲に変わり、人々は恐れおののいた

蘇我入鹿の暴走を蝦夷は激しく責め立てたのだった

推古天皇と聖徳太子②

推古天皇は、天皇に即位すると
甥の厩戸皇子(むまやとのみこ)を皇太子にして政治を担当させた

厩戸皇子は用明天皇の子であり
両親は共に蘇我稲目(そがのいなめ)の孫にあたる
蘇我馬子の娘である刀自古郎媛(とじこのいちつめ)を妃として迎えた

厩戸皇子は、蘇我氏の血で固めた蘇我氏のホープである

母が厩の戸にあたった時に出産したために厩戸皇子と呼ばれた

厩戸皇子は生まれてすぐに言葉を語り
成人してからは一度に10人もの話を聞き
その一人一人の言葉を理解して的確に返答したという

高句麗からきた高僧の慧慈(えじ)に仏教を学び
仏教の振興に大きく貢献した
自分の仏像を秦河勝(はたのかわかつ)に与え
蜂岡寺(京都太秦の広隆寺)を創建させた

鞍作鳥(くらつくりのとり)に命じて飛鳥寺に大きな釈迦如来像(飛鳥大仏)を作らせ
自分の斑鳩宮(いがるがのみや)に法隆寺も建てるなど
かなりの勢いで仏教を広めていった

聖徳太子(厩戸皇子)は、推古11年(603年)に冠位十二階を導入
個人に対して12段階に分けた位を授ける制度で
氏族単位で担ってきた朝廷の官僚組織を改革し
生まれだけではなく個人の能力や実績を重んじて位を与えた

さらに官僚制度をより強固なものにするために
役人の心得を記した十七条憲法も施行
その内容は国民への奉仕の心を説き、税の横領を戒めるなど
役人に対して高い道徳精神を求める内容となっている

推古15年(607年)には聖徳太子は小野妹子を隋に遣わした
この遣隋使は雄略天皇が断交してからおよそ130年ぶりの国交回復となった

隋への国書では対等な関係を主張し皇帝煬帝を怒らせたと
中国の歴史書には記されている

日本書記には書かれてはいないが
西暦600年にも遣隋使を送っていたが
法整備も進んでいない遅れた国だとバカにされて相手にされなかったようだ

冠位十二階や十七条憲法を定めるにいたったのも
600年の遣隋使の失敗を踏まえて
官僚制度を整える立派な国をアピールするためだったと思われる

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