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2014-09

古事記を書いたのは誰か

天皇から直々に古事記の編集・執筆の依頼を受けた人物は
記録に二名残っている

稗田阿礼(ひえのだあれい)と、太安万侶(おおやすのまろ)
である

稗田阿礼は、当時28歳の
舎人(とりね)という、天皇の側近に奉仕する役職だった
天皇の側近は、皇族や貴族などであるが
雑用をするような役割だった

しかし、稗田阿礼は大変頭が良く
一度、見聞きしたものは全て暗記できて、忘れることがない…という能力を持っていたといわれていて
その才能を買われて古事記制作のメンバーとなったようだ

天武天皇にその才能を見初められた稗田阿礼は
古事記のもとになった「帝記(ていき)」や「旧辞(きゅうじ)」などを覚えるように命じられた

そして、もう一人の執筆者である太安万侶は
文章を書く才能に秀でていたので
稗田阿礼が覚えた内容を文字におこしてまとめていく役割を担った
これを命じたのは、元明天皇である

太安万侶は、奈良時代の文官であり
古事記の序文の終わりに
「正五位上勲五等太朝臣安萬侶(しょうごいのじょうくんごとうおおのあそんやすまろ)」
と、自分の位を記している

古事記を執筆するくらいの人物であるから
位が高いように思われるかもしれないが
この「正五位上」という位は
そんなに低くもないが、高くもない

勅命を受けるわりには
こういってはなんだが、中途半端な位である

しかし、それほど
太安万侶は、文才のある人物であった…ということであろう

この古事記の制作には
天皇も、かなり力を入れていたようで
二人共、位など関係なく
才能を見込まれての大抜擢だったようである

稗田阿礼が覚えた内容を文章にするのは
かなり大変な作業だったようで
太安万侶は、一年もの期間を費やして執筆を終えている

太安万侶の存在は、その後の歴史書にも記されており
墓も発掘されていることから
その存在は、間違いないと思われているが

稗田阿礼に関しては人物があいまいで
「日本書記」や「続日本記」にも記録が残っていなく
「古事記」にしか登場しない人物である

そもそも稗田阿礼自体の存在を疑う説や
女性説なども巻き起こる
情報の少ない、ナゾの多い人物なのである

ともかく
古事記は、記録上では
この二名が執筆したと言われているのである

古事記は、誰が何のために作ったのか

日本最古の歴史書と言われる古事記

現代にも絵本として語り継がれている「ヤマタノオロチ」や「因幡のシロウサギ」も古事記に収録されている話である

 

古事記は奈良時代の初め712年に完成した

その当時の天皇であった天武天皇は
天皇家の歴史が正しく伝わっていないことを危惧して

このままでは天皇家や日本の国家の存続が危ぶまれるとして
古事記の執筆を決意した

 

昔から伝わる歴史の誤りを改め

正しい天皇家の歴史を後世に伝えるべく
古事記を作成するように命じた

この作業が行われたのが674〜677年頃ではないか…と言われている

 

そして、その作成を担ったのが
稗田阿礼(ひえだのあれ)と、太安万侶(おおのやすまろ)である

 

しかし、作業は想像以上に難航し

天武天皇は、その完成を待たずして

686年にこの世を去ってしまった

 

天武天皇の死によって

古事記の作成は、一旦中止することとなる

 

しかし711年の元明天皇の時代に作業が再開し
古事記が完成
一年後の712年1月28日に太安万侶によって献上された

 

古事記は上、中、下の3巻からなる

上巻は、天地開闢から神武天皇の誕生まで

中巻は、神武東征から応神天皇まで

下巻は、仁徳天皇から推古天皇まで
となっている

古事記は、神話やファンタジーと思う人も多いだろうが
天皇家サイドの見解としては、天皇家の真実の書
国をつくった当事者の家系であることを広く信憑性を持って認識してもらうことで、天皇家に対する信頼を揺るぎないものにする意図があったようにも思える

今の言葉を使えば、天皇家のブランディング戦略が古事記の作成なのかもしれない

 

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