Home > Archives > 2014-03

2014-03

お墓について家族で話し合う

高齢になると心配になるお墓問題

自分の親が高齢になった時や、親の死に直面した時など

家族でお墓のあり方を考える機会がある

 

その一方、お墓問題は

若干、非日常的な雰囲気もあり

なにかしら自分に降り掛かってくるものがないと

日頃から考えている問題でもないので

いざ、お墓について考える機会に直面した場合

お互いの考え方の相違が露見することも多い

 

なんとなく、こうではないか…?と予測だけで曖昧にしておくと

実際に、話し合う場面になって揉めることも多いようだ

 

昔は、先祖代々お墓を継承し

その家の長男が、継いでいく…というルールがあったので

その家の長男は、小さいころからお墓を守ることを言葉として聞いていているので

ある程度の覚悟もできていたかもしれない

 

しかし、現代は、そのルールが

家族の形態や環境によっても、様々で

子どもが少ないことや

女性しかいない場合

子どもが遠方にいることで、優先順位が変わるなど

一概に、長男が継ぐ…ということだけで片付けられなくなっている

 

そして、問題に直面してから

憶測を持ち寄り、話し合うので

スムーズに進まない場合も多く

覚悟のないまま、お墓を守る役目を負ったり

親の立場だと、「アテ」にしていた子どもがお墓を守れない事実を知り

愕然とする場合もある

 

そんな、揉め事を避けるために

個人墓や、夫婦墓など

継承問題を考えなくてもよい方法を選択する人も増えてきた

 

現代社会は、ライフスタイルの変化に伴い

様々な、生活上での選択を迫られる機会が増えてきた

 

しかし、日常的なことであれば

対応もスムーズなのだが

 

お墓問題のように、頻繁に気にする機会が少ないのに

事柄は大きい場合には

考え方の違いが多きく露見してしまうようだ

 

何が正しく、何が間違っているのかも

ジェネレーションギャップという言葉で片付けられれば良いのだが

問題は、そんなに簡単でもなく

結婚している場合などは

双方の親、そして夫婦間の考え方も埋めていかなければならない

 

準備のない死の場合は

その決断する時間は、あまりにも短く

溜飲が下りないうちに決定が下されることも少なくない

 

そのようなことを避けるためにも

日頃からお墓についての考え方をすりあわせておく必要がある

 

死の問題を日常から言葉に出すことに

タブー感のある雰囲気もあるが

日頃から死を見つめることは、すなわち

「生きる」ことを見つめることになるのだ

 

誰も、平等に訪れる「死」

 

だからこそ、確認しておきたい事柄である

 

死を語る時…それは、家族の絆や愛情を感じる作業でもあるのである

夫婦で同じ墓に入る意味

夫婦は、同じ墓に入ると決めた他人である

その墓の意味を噛み締めて
仏教の夫婦についての教えを
少し現代風にアレンジしたものを紹介していく

墓が、夫婦にとって
ただの祭事の一部でないことが明確になってくるだろう

 

夫婦とは、鏡である師である

夫婦とは、自分に都合の良い幸せを与えてくれる存在ではない

夫婦とは、人生を共に闘う同志である

夫婦とは、恋愛関係の延長ではない

結婚まで至る夫婦は
同じステージのモノが共に足るを知るために一緒にいるのだ

結婚は、夢物語ではなく、学びの機会である

しかし、多くを学び、共有し、慈愛の心をお互いに投げかけた夫婦は
恋愛関係以上の大きな幸福感を手にいれることができる

結婚のルールは
求めないこと
許すこと
認めること
相手のために努力し、尽くすこと
見返りを求めないこと

自分の選んだ結婚相手である
投げかけると
これらはタイムラグがあっても返してくれるだろう

過剰に求めれば、心は離れていく

結婚生活は、自己成長の舞台である
自分に学びがあれば、それだけで大成功なのだ

 

共に同じ墓に入ると決めた者同士は
その長い道のりの中
自分の伴侶を、自分の思い通りにコントロールすることが結婚ではないことを知り
共に成長したことを喜び
苦労も喜びも、一緒に乗り越えた同志

死後も同じ場所にいることを考えると
その墓の存在も大きな目標や希望となる
夫婦間に問題がある人は
今一度、夫婦間で
どのような形で墓に入るのか…を考えてみる機会を設けてみると

おのずと答えが見えてくるかもしれない

儀式ではなく
魂となった後、成仏した後のことを考えてみると
もっと答えはシンプルになるはずである

墓は、骨を埋葬する所ではなく
生きる指針になる、通過点なのである

 

 

Home > Archives > 2014-03

 

このページのTOPに戻る