Home > Archives > 2012-02
2012-02
苦しみは喜びを求める心から
この世の中では、特に現代の人々は
「欲求を満たすこと」で、幸せになれると考えている人が多いのではないだろうか?
それゆえ、人は欲求を満たすことと、苦しみを取り除くことでより幸せに近づくことができると信じていて
人生のほとんどを、欲求の補填と、苦悩の排除に使うのである
食欲、性欲、睡眠欲を満たし
快適さ、便利さを追求し
暑ければ涼しくし、寒ければ温かくする
そこに物欲、名誉欲…など、それこそ108つにもなるであろう煩悩を満たすべく
不快なものを取り除くべく、模索していく
仏教では、その幸せの源のように思われる欲求こそが
苦しみの元であると考える
苦しみとは、すなわち「欲求が満たされない」という不満であるから
欲求そのものがなければ、苦しみも発生しないと考える
「あらゆる現象には、永久に不変なもの(=我)はない」
世の中に起る全てのことは無常なのである
人の命も無常であれば
人の心も無常である
無常である…という意識を日常の中でも持っていれば苦しみは半減するであろう
仏教では「主体となるもの(=我)」を全く認めず
完全に否定をした「無我」の立場をとる
では、もしそうであるなら
私たちが実際に見たり聞いたり触れたり感じたりするものは何なのだろうか?
それは一瞬一瞬に変化する一切のものがある条件(=縁)によって生み出している現象にすぎない…と仏教ではいっている
つまり、そのものだけでは存在しないものが
ある条件を備えることで、固定的に連続しているように感じられる「現象」で
その現象が、この世の真の姿(実相、真如)である
これらを「縁起」という
縁起とは、読んで字のごとく「縁って起こる」という意味で
「因果」ともニュアンスが似ている
これも大乗仏教が起こると
解釈が少し変わってきて
「永久に不変なものとして存在しない」のであれば
ものの本質は「空」であると考えられた
この「空」によって「縁起」を解釈すると
「迷いも悟りもその本質は『空』である」と、大胆な解釈になってくる
その「空」を知ることが智慧であると考えられるのである
ちなみに智慧とは、般若のことであり
般若はサンスクリット語で「パンニャ」の音写である
この場合「正しく『空』を知る」智慧で
音は同じだが「知恵」や「智恵」とはハッキリと区別されている
六道輪廻
輪廻転生という考え方は、仏教において深く語られる言葉
簡単に言うと「生まれ変わり」ということだ
科学合理主意を唱える現代では否定的な人も多いのだが
仏教においては、古くから輪廻転生は真理として語られてきた
そして輪廻する場所は、また同じ場所というわけではなく
六つの世界に輪廻する…という考えが「六道輪廻」である
その六道とは「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人間」「天」の六つである
人間、もしくは全ての生き物がこの六つのいずれから転生してきて
来世も、この六つのどれかに転生すると考えられている
では、どのようなことで転生する場所が決まるのだろうか?
これは、前世での行ない(業や宿業、インドではカルマなどと言われる)の良し悪しによって転生場所が決まると言われている
「前世での善いおこないの結果としては楽を、悪いおこないの結果としては苦しみを
必ず来世で受ける」という考えが『前業楽果、悪業苦果』(=「善因善果、悪因悪果」)というものである
そして六道は、どの世界に転生したとしても「死」と「苦」はから
逃れることはできない
「死」と「苦」の存在する世界は、仏教において最終目的ではないのだ
六道輪廻の原因はすべて「煩悩」の影響を受けている
智慧あるものは、本当の幸せや真理を追い求めて修行の道を選んだりするが
無知であることで欲望に振り回される魂は、その欲望に沿った生き方をした結果
その行いが業として、次の転生を決定する
だから仏の道を目指す者は、煩悩を断ち切り
永遠に繰り返される六道輪廻の道から抜け出すことを目指すのである
これがすなわち「解脱」である
「解脱」というのは、涅槃のことであり菩提ともいう
この六道輪廻の循環から抜け出し解脱するものが成仏できるのである
解脱したものは、煩悩に振り回される六道の此岸(娑婆世界)を離れて
彼岸の浄土を往くことを許され、仏の国へ往生することになる
仏の国の浄土には「死」も「苦」もなく
悩み、苦しみ、死の恐怖から解き放たれ
往生した人は、二度と六道輪廻を繰り返すことはないと考えられているのだ
それゆえ、現世に置いて功徳を多く積み
魂をより高い世界へ引き上げる努力や修行を行なうのである
Home > Archives > 2012-02
- サイト内検索
- Feeds
- Meta