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苦しみは喜びを求める心から

この世の中では、特に現代の人々は

「欲求を満たすこと」で、幸せになれると考えている人が多いのではないだろうか?

 

それゆえ、人は欲求を満たすことと、苦しみを取り除くことでより幸せに近づくことができると信じていて

人生のほとんどを、欲求の補填と、苦悩の排除に使うのである

 

食欲、性欲、睡眠欲を満たし

快適さ、便利さを追求し

暑ければ涼しくし、寒ければ温かくする

そこに物欲、名誉欲…など、それこそ108つにもなるであろう煩悩を満たすべく

不快なものを取り除くべく、模索していく

 

仏教では、その幸せの源のように思われる欲求こそが

苦しみの元であると考える

 

苦しみとは、すなわち「欲求が満たされない」という不満であるから

欲求そのものがなければ、苦しみも発生しないと考える

 

「あらゆる現象には、永久に不変なもの(=我)はない」

世の中に起る全てのことは無常なのである

人の命も無常であれば

人の心も無常である

無常である…という意識を日常の中でも持っていれば苦しみは半減するであろう

 

仏教では「主体となるもの(=我)」を全く認めず

完全に否定をした「無我」の立場をとる

 

では、もしそうであるなら

私たちが実際に見たり聞いたり触れたり感じたりするものは何なのだろうか?

それは一瞬一瞬に変化する一切のものがある条件(=縁)によって生み出している現象にすぎない…と仏教ではいっている

 

つまり、そのものだけでは存在しないものが

ある条件を備えることで、固定的に連続しているように感じられる「現象」で

その現象が、この世の真の姿(実相、真如)である

 

これらを「縁起」という

縁起とは、読んで字のごとく「縁って起こる」という意味で

「因果」ともニュアンスが似ている

 

これも大乗仏教が起こると

解釈が少し変わってきて

「永久に不変なものとして存在しない」のであれば

ものの本質は「空」であると考えられた

 

この「空」によって「縁起」を解釈すると

「迷いも悟りもその本質は『空』である」と、大胆な解釈になってくる

 

その「空」を知ることが智慧であると考えられるのである

 

ちなみに智慧とは、般若のことであり

般若はサンスクリット語で「パンニャ」の音写である

 

この場合「正しく『空』を知る」智慧で

音は同じだが「知恵」や「智恵」とはハッキリと区別されている

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