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仏教のお話 Archive

ライフスタイルの変化と仏教

お釈迦様が解いた仏教の教えと、現在日本で語られている仏教では

全く別なモノになっている

これは、長い歴史と距離を移動するにあたって

少しずつ解釈が変わってきたようだが

現代の仏教の解釈と、原始仏教では別の宗教と言ってもいいほどの変貌を遂げているのだ

その解釈は枝分かれをして

ある意味、柔軟な都合の良い解釈もされながら伝わってきていて

現代では、葬祭時のイベントのマニュアル的なものになっている

日常的な信仰心はなく

死を迎えた時に、その宗派に則り解釈された作法で儀式を行い

全ての人は、成仏できることになっている

しかし原始仏教は、都合良く全員が成仏できるようなものではなく

現世の行い如何によっては、成仏することなく

その業に従い転生するものと教えられている

それ故に、人々は来世の果報を願い

成仏、またはよりよい転生を願って徳を積むのである

昔の宮家の人々が、任務の遂行後や後家になった後に出家するのも

来世の果報を願ってのことであった

俗世を捨て、仏門に入ることは

尊い行いであり

生きながらに世を捨て、欲を捨て、執着を捨て

心の浄化に励むのである

それに反して、現代の儀式では

現世の行いが、どのようなものであっても成仏できてしまう…という

ちょっと都合の良い解釈がなされているのは

歴史や時代が移り変わり

ライフスタイルが変化している影響もあるのだろう

しかし、それで現代人は後生が解決できたと安心しているのではなく

みんながやっているから、とりあえず儀式として執り行い

その意味など、あまり考えていない場合も多いのかもしれない

仏教での三道悪

 

 

仏教には六道輪廻の考えがあると

以前も記したことがあるが

 

仏教では、現世での行い如何によっては

天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道

の、いずれかに転生すると言われている

 

そして、地獄、餓鬼、畜生の3つは、三悪道と呼ばれていて

皆が、避けて通りたいと考えている道である

 

そして、三悪道に落ちないためにも

現世での行いに気をつけて

来生を、より良い転生ができるように願うのである

 

しかし、その道が厳しく

欲を滅し、厳しい規律を守り修行に励まなければ

三悪道を避けることはできないと考えられていた

 

そして、悟りを開いた状態(=解脱)を目指すのである

 

その道は、煩悩を捨てる道であるため

多くのものは、その道を断念せざるを得ない場合も多く

しかし、三悪道に転生する恐怖もあり

死後の解釈を変えて

全ての死者が仏になれるようなシステムに変わっていった

 

現代の日本では、宗教観も

冠婚葬祭の時のみに登場するような形で

その教えを深く考えずに

儀式だけを執り行う場合も少なくない

 

もっと酷い場合には

婚姻する場合と、葬式をする場合に

全く違う宗教の儀式を行うことも少なくない

 

故に、その宗教観の中に

三悪道に転生する恐怖もなく

取りあえずは、追善供養を行うことで

現世での行いが悪くても

成仏できることになっている

 

しかし、その敗者復活戦のようなシステムに変わったことによって

現世で良い行いをすべきである…という観念が薄れて

多少悪いことをしても、成仏できる…と考えるのであれば

まだマシな方で

儀式のためのパフォーマンス的な捉え方では

現実主義に偏り過ぎて

目に見えることだけを信じるようになり

行い云々以前の問題となってしまう

 

そうならないためにも

真理を伝えるべき人間が

正しい解釈を伝えることが重要になってくる

第七回 「仏教のお話 その3」・・(平成18年9月1日)

前回前々回と、日本と中国の仏教について、本当にざっとお話ししました。その中でたびたび触れたことですが、今、日本に伝わっている仏教というのは、古代インドで広まった仏教、もっと言うとお釈迦様本人が教え広めた仏教とは、大きく変化しています。
  それが正しいとか間違っているとか、あるいは良い悪いという議論は、個人的には的を外れた論議だと思っています。

 ベースボールは、日本で独自に発達して野球というスポーツになった。

 WBC開催当時には、こんな意見もありましたが、仏教もまさに同様で、その国の文化的な背景に影響されて、理解も解釈も変わるのが当然だと思います。

 さて、仏教とはどんな宗教なのか?
  宗派学派によって、解釈の細かな異同はあると思われますが、最終的な目的を「成仏(仏と成る)」ことに置いた宗教であると言えるのではないでしょうか。「輪廻」という人間の苦しみから解放され(解脱)、「悟り」を得ることが目的と言えます。他ならぬお釈迦様とて、悟りを得て成仏することを目指しておりました。
  原始仏教は、悟りを得たお釈迦様の言葉を、弟子が書き取ったり記憶したりして後世に伝わっていったのが始まりと言えるでしょう。そして代々、言葉が継承される中で、様々な解釈が加えられていき、今の「お経」が成立しました。

 仏教には大きく二つの流れがあります。
  ひとつは、自身の成仏を目指して修行する事に主眼を置く「小乗仏教」で、タイを中心とした東南アジアで普及しました。そしてもうひとつは、日本を含めた東北アジアで普及した「大乗仏教」があります。
  小乗仏教に対して大乗仏教は、自身の成仏だけではなく、自分以外の他者の成仏も願う仏教です。もう少し正確に言えば「まず他者の成仏を願い、その上で自身の成仏を目指す」ということになります。
  私たちは仏教の葬式の際に、死者に対して哀悼の意を表すると共に、(宗派によって考え方は違いますが)死者の成仏を願っています。また、四十九日法要までの七日ごとの法要を、死者の成仏を閻魔様他それぞれの「判事」に対してお願いする儀式と位置づける宗派もあります。
  こういったところに、大乗仏教の「自利利他」の考えが反映されているのではないでしょうか。

 大乗仏教の終着地とも言える日本では、仏教伝来以来、多くの宗派が生まれ、今に受け継がれています。
  奈良時代に伝えられた仏教は学問的な研究がなされ、それぞれの研究分野に応じて、主だったとものとして、いわゆる南都六宗(三論・成実・法相・倶舎・華厳・律)に分かれ、現在に至るまで葬墓にほとんど関わることなく、寺院も学舎として機能しています。
  平安時代になると、遣唐使によって二人の偉大な僧侶が新しい仏教を日本に持ち帰ります。言うまでもなく、弘法大師空海の開いた真言宗と、伝教大師最澄の開いた天台宗がそれです。個人としての知名度は、各地に様々な伝説の残る空海の方が上かも知れませんが、後世の仏教に与えた影響では最澄に分があるのではないか、と思います。
  真言宗は、当時唐に伝えられたばかりの最新のインド仏教(密教)を受け継ぎ、現世に於いて成仏することを目的としておりました。これに対し、天台宗は「法華経」を最高の教えとしながら、総合的な仏教大系の構築を目指しました。このため、天台宗には新しい仏教の考えを受け入れ、発展させる素地がありました。こうした宗派の性格が、後の鎌倉仏教と呼ばれる、新しい仏教運動に深く関わりを持つことになります。
  天台宗から生まれた鎌倉仏教の宗派には、主に以下のようなものがあります。
    融通念仏宗(良忍)
    浄土宗(法然)
    臨済宗(栄西)
    浄土真宗(親鸞)
    曹洞宗(道元)
    日蓮宗(日蓮)
    時宗(一遍)
  これらの宗派の祖師達に共通する立宗の動機は、いずれも天台宗という総合仏教の中から、ひとつの教えだけを取り出した、という点にあります。
  「念仏」「座禅」「法華経」といったキーワードを、それぞれの祖師が自身にとっても、また多くの人々にとっても、解脱に至る斎場の実践法と考えて、それに専念したのです。

 空海・最澄の開いた平安仏教以後の各宗派は、現在に至るまで、
私たちの葬墓に関わりを持っています。それぞれの宗派に特徴的な思想は、当然、それぞれの葬墓にも特徴的な形で表現されています。
  次回は、各宗派のお墓に見られる特徴をお話ししたいと思います。

第六回 「仏教のお話 その2」・・(平成18年8月1日)

中国の文化・習俗を語る上で、決して無視できないものに儒教と道教があります。「教」となっているために、宗教的なイメージが強いかと思われますが、厳密には儒教も道教も「宗教」とは言えません。古代中国の春秋戦国時代に生まれた、いわゆる「諸子百家」と呼ばれる、非常に政治的な活動をおこなった集団の一派です。なので、以下「儒教」は「儒家」、「道教」は「道家」と記述することにします。

 儒家は、特に道徳規範と祖先崇拝を尊重します。儒家が重要視する書物に、いわゆる「十三経」や「四書」がありますが、そのうちの『禮記』『儀礼』『周禮』といった礼儀に関する書物の中では、「曲禮三千」という言葉があるように、様々な場面での礼儀に関して、非常に事細かに記載されています。特に葬儀に関する記述量は群を抜いて多く、このため、儒家はもともとは葬儀屋の集団だったのではないか?と考える専門家もおります。
 ちなみに日本では、葬儀の後の四十九日や各年時でおこなわれる法事といった法要がおこなわれますが、これらはいずれも儒家の書物に基づいておこなわれているものです。

 これに対し、道家はロジカルな議論を好む傾向が見られます。弓矢の達人に教えを請おうとして、達人に弓矢を渡したところ、達人はそれがなんなのかわからない、とか、一見弱々しい水や赤ん坊が実はもっとも強い存在であるといった、逆説的な内容の説話が、関係する書物に多く観られます。
 政治的にも「なにもしないことが自然なことだ」という考え方を持っていたために、世捨て人(隠者)として暮らす人も多く、このあり方が、民間の仙人信仰と結びついて、宗教的な色合いを帯びていきました。

 さて、中国で最初に仏教が注目されたと言えるのは、いわゆる三国六朝の時代です。この時代は、後漢末期から始まり隋の全国統一まで、約400年にわたって続いた戦乱の時代です。一般民衆だけではなく、支配階級にも厭世的な雰囲気が広まっていたことは容易に想像ができます。
 当時すでに、儒家の考え方は政治に深く反映されておりましたが、その中でも隠者に対する憧れのような嗜好が、支配階級にも広がります。これと併せて、仏教に対しても興味を持つ人々が増えていきました。
 というのは、まず、儒家の言う道徳規範を守ったところで、人々の幸福は約束されないのです。例えば、孔子の一番弟子の顔回は、ことあるごとに孔子に誉められていますが、結局貧乏なまま早死にしてしまいます。義理を通した伯夷叔斉の兄弟は、結局、山でのたれ死にます。結局まじめに生きたところで、ろくな人生にもならねぇや、という考え方が広まっていったのかも知れません。ともかく、厭世的な世相を反映して、老荘思想と仏教が、知識階級の中でも広まりを見せていきます。
 また、それまでの中国の習俗の中には、死後の世界や生まれ変わりといった考え方が存在していませんでした。ところが、もう日常が戦争の中で過ごした時代ですから、儒家のように道徳的な生活を一生懸命やったところで、結局はいつ死んでしまうかわからない。ならば俗世を離れて日々飲んだくれるか、次の人生では幸せになりたい、という考えが生まれてきても不思議ではないと思われます。この「生まれ変わり」について、体系化して説明されていたのが仏教だったのです。これを中国では「三世報応」と表現され、仏教の中心的な教えであると理解されるようになります。
 こうして、六朝時代の仏教は、道家の主義主張を関わりを持ちながら、知識階級の中で広まっていきます。これをいわゆる「格義仏教」と呼びます。
 ところで、生まれ変わり、いわゆる輪廻という考え方は、仏教に限らずインド文化圏全般でみられる考え方です。中国では輪廻に救いを見いだしましたが、インドに於いては、この輪廻の悪循環からの脱出(解脱)こそが救いに他なりません。これは文化的な素地の相違から産まれた変容ですが、いずれにしても、日本に最初に入ってきた仏教は、中国で理解された仏教でした。

 時代は下って、唐の時代になるとシルクロードに代表される、東西文化の交流の発達によって、仏教文化も広く世の中に浸透していきます。併せて、よりインド本来の仏教に近い教えも伝わってきました。これがいわゆる密教です。日本にも遣唐使を通じて、空海や最澄が日本に伝えてますね。

 さらに時代が下って、宋の時代になると、儒家の中に自己修養を重んじる考え方が産まれてきます。いわゆる朱子学がそれに当たるのですが、朱子学者は修養の方法のひとつとして、仏教の座禅を取り入れました。禅宗で言われる「只管打座」という言葉は、朱子の書物でもたびたび観られます。
 明の時代になると、朱子学に対立する形で陽明学が産まれますが、陽明学者の中には、より仏教的な思考を取り入れた考えを持つ者も現れます。
逆に仏教の側でも、こうした儒教の新しい学派の理論を受け入れていきます。中国には、佛教関係の書籍を集めた『大蔵経』という文集がありますが、この中には朱子の書いた書物の他、儒家と目される学者の手による書籍も多く収められています。

 江戸時代以前の日本は、インドとは直接的な文化の交流はなく、仏教も含めたインド(当時は「天竺」と呼んでました)文化は、ほぼ全てが中国を経由して日本にやってきました。
前回触れたように、日本に伝わってきた仏教は、日本の文化に合う形に変化して受け入れられましたが、その前の段階として、中国の文化に沿った形に変容した仏教が、日本に伝えられています。
 中国的な解釈を加えられた仏教の特徴は、「三世報応」や、祖先崇拝の重視とそれに関わる秩序化された儀礼、朱子学・陽明学の影響を受けた自己修養などがあげられますが、いずれもが、日本の仏教文化に深く影響していることは、皆様の日常生活で関わる部分でも感じることができるのではないでしょうか。

第五回 「仏教のお話 その1」・・(平成18年7月1日)

、ちょうどワールドカップで盛り上がっている時期ですので、まずはサッカーの話から。

 サッカーが日本にはじめて入ってきたのは、恐らくは明治時代のことかと思います。その後は、大学体育会や学校クラブの範囲に、一部の企業のクラブの中で、趣味的におこなわれてきたスポーツだったと言っていいでしょう。それが日本という国の中で、最初に注目を集めたのが、メキシコオリンピックの銅メダル獲得じゃなかかったかと思います。そしてその後の人気低迷を経て、再度注目を集めるようになったのは、Jリーグの発足でした。そのあとはワールドカップ出場などで認知度を上げ、今や日常会話の中でサッカーが当たり前に語られる時代になったと思います。

 ものすごいこじつけになるのかも知れませんが、仏教の日本伝来の歴史も、このサッカー普及の歴史と似たような経緯を経ていると思います。

 仏教がはじめて日本に伝えられたのは、教科書では西暦538年とされています。当時入ってきた仏教は、仏教にどっぷりはまってしまったマニア(僧侶)や、仕事柄や立場上の関係で知って置いた方が良いという立場の人達(皇族や貴族)の間のみで、知られていたというだけの存在で、一般の民衆にとっては「なにそれ?」というレベルのものです。
 もちろん、そんな一部のマニアによって語られていた仏教ですが、そんな中でも世の中に知られた存在はいました。例えば、奈良の大仏建立の資金集めで頑張った行基とか、四国八十八ヶ所を作ったとされるなど、色んな伝説が残っている弘法大師空海などがそれで、彼らはメキシコ代表のエースストライカー、釜本みたいな存在だと言えるでしょう。行基や空海は、民間信仰の対象として比較的知られた存在でしたが、じゃ仏教はどうかというと、まだまだ認知度は低かったと思います。

  「仏教って知ってる?」
  「知らない」
  「ほら、最近よく聞く、空海さん」
  「あ~はいはい。なんか聞いたことあるね」
  「その空海さん、仏教のお坊さんってヤツなんだわ」
  「へぇ~そうなんだ」
  「その空海さん、ちょっとすごい人なんだって。俺の知り合いもすごく世話になったみたいでさ」
  「あ、そうなの?俺も一度お世話になってみたいよ」

 実際にそんな会話をした人が居たかどうかは知りませんが、一般の間ではその程度の認知度だったのだろうと思われるわけです。
 その後は、正月になると高校サッカーが深夜に放送されてみたり、天皇杯決勝をNHKが放送したり、という程度で、時々「あ、サッカーだ」と気付く程度の時代が続きます。同様に、平安時代の仏教も、時々坊主頭で墨染めの衣を纏ったおっさんを見かけるとか、武装した坊さん(僧兵)どもの活動でとばっちり食う程度のもんだったのでしょう。

 では、仏教史に於ける「Jリーグの発足」に当たるのはいったいいつの頃のことなのか?といいますと、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、となるんじゃないでしょうか。
 この時代は、全国的な規模で戦争が頻発しています。いわゆる源平の合戦ですね。源平絡みで戦場になった場所というと、京都周辺のみならず、東北地方・北陸・関東・神戸・四国・北九州と、全国規模で戦争しています。多分これだけの規模の戦争が起きたのは、日本史上ではじめてのことだろうと思います。
 加えて、平安初期に確立した律令体制による全国統治は、この時代にはすっかり崩れ、悪党と呼ばれる武装集団が横行したり、自衛団としての武士が誕生したり、と、庶民生活には不安が一杯だし、先のことはわからない毎日だったと思います。
 鎌倉時代になっても、鎌倉幕府自体はいつの間にか傀儡になってしまい、身近な支配者は、「まろ」からいつも刀を腰に差した武士になりました。ちょっとおかみに逆らえば、その場で切り捨てられかねないわけです。おまけにそのうち、外国の軍隊が攻め込んできて、日本存亡の危機を迎えてしまいます。
 そんな不安いっぱいな毎日の中に、ひとときのカタルシスを与えてくれたのが、新興仏教の各宗派だったんじゃないかと思います。

 「ひたすら『南無阿弥陀仏』と唱えて今を頑張っていれば、今の人生じゃダメかも知れないが、死んだ後や生まれ変わったときにはいいことあるさ」とは、法然上人の教え。
 「いやいや、師匠はそう言うけど、今の人生をがんばり切れてない人、いや悪人だって、心を込めて『南無阿弥陀仏』一回でも唱えれば、死んだら仏さんになれるし、次の人生だって良いことあるよ」という親鸞上人。
 「まぁとにかく念仏唱えて踊ろうぜい」と言ったのは一遍。
 「ひたすら座禅を組んで自分を見つめ直してみなさい。そうすれば、なにかが変わるよ」と座禅を広めた栄西上人や道元上人。
 「『南無妙法蓮華経』と唱えて、大日如来におすがりすれば、元寇などおそるるに足りないわい」と日蓮上人。

 専門家やそれぞれの宗派に帰依されている人達からは非難囂々浴びそうですが、一般庶民から見れば、彼らはそんな存在だったのではないか?と想像されます。

 ともかく、彼らの活躍によって、仏教が日本人の生活文化の中に浸透しはじめるわけですが、人間というものは、わからないことをわかろうとする時に、わかっていることで喩えて理解しようとする場合があります。曰く「ペレとかマラドーナってのは、日本の野球でいうと長島と王と張本を合わせたくらいの人気と実力を持った選手だったんだ」とか、「プラティニは、言ってみればエースで4番みたいな存在感のある選手だったんだよ」とか、「リケルメはアルゼンチン代表の中では『王様』なんだよ」とか。それが正しい比喩かどうかは別としても、知らない人達はこの喩えを聞いて「何となくすごい選手なのだな」と理解できるわけです。
 仏教を知らなかった人達が、仏教を理解する段階では、当然そういう風に理解しようとする人達はいたと思いますし、広める側にとっても、わかりやすくするために、このような比喩を使う場面は多くあったと考えられます。仏教の場合は、それまでに民間信仰として定着していた自然崇拝(いわゆる神道)を利用して理解したり説明されることが多かったのでしょう。そういった日本の仏教信仰のスタイルを、教科書的には「神仏混淆」といった言葉で表現してますね。

 ところで、仏教はインドの釈迦様が興した宗教だということは、多くの方が知っていることでしょう。でも、日本に伝わった仏教は、お釈迦様の教えが直接やってきたわけではありません。中国を経由して伝わってきています。ということは、日本人に理解され広まっていく段階で、日本人が理解できるような形に変化したのと同様に、中国で広まった仏教も中国人が理解できる形に変化して受け入れられてきたはずです。

 次回は、中国で広まった仏教は、もともとの仏教とはどう違っているのか、を書いてみたいと思います。

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