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2011-08

徳を積む

高齢者の方と話をしていると

たまに、こんな話を聞く

「私はとても幸せな人生でした。御先祖様がどれほど徳を積んで下さったのかと思うと、本当に感謝しなければなりません」と

 

最近は、この「徳」「不徳」を聞くことが少ない

「徳を積む」という概念そのものが無いのかもしれない

 

では、いったい「徳」とは何であろうか?

 

一般的には、良い行いのことを指していると思われる

 

では、どうして御先祖様が徳を積むと

その子孫が幸せになれるのか?

 

「徳」「不徳」は、貯金のように貯めることができると考えられてきた

良い行いをすれば、その分幸せになり

その人の人生で使いきれなかったほどの「徳」は、その子孫が受け取れるとされてきた

 

だから、良い行いをたくさんしてきた御先祖様の子孫は

幸せの恩恵を受け取ることができる

 

逆に「不徳」を積んだ場合は

その子孫が、その不徳の後始末を強いられることとなり

自分の悪い行いを、自分の代で浄化しきれないと

その子や孫が、不幸な思いをするのだ

 

この考え方の前では

自分さえ良ければそれでいい…というエゴイズムは通用しないことになる

 

そして、自分の子孫に幸せになってもらいたい…という思いが

その行動に緊張感を持たせる

 

ヨガの教えでも「功徳を積む」とか「カルマ(業)の法則」などの言葉があり

行いが貯まる…という意味で解釈されている

 

インドのヨガの教えは

日本の「御先祖様の徳」と少し意味合いが違い

輪廻転生が信じられているので

次の世でも引き継がれる…と考えられている

 

ほかの国でも似たような考え方や教えがあり

信じるか、信じないか…という話は別にして

この「徳」の考え方は、潜在意識に刷り込まれている

人類共通の認識なのかもしれない

 

信じないからと不徳を重ねて

本当に自分や、子孫に返ってきた時に後悔するよりは

徳を積み、自分の来世や、子孫が幸せであるように願う方が

どちらにしても得なのかもしれない

古墳時代のお墓についての、現代人の認識

古墳時代の研究は、考古学者にとって大変魅力的なものなのだろう

さまざまな制約を考慮したとしても

やはり考古学者の関心は、庶民の墓よりも、天皇や首長といった支配者の墳墓に向いているようだ

 

そのせいなのか、マスコミの報道のありかたなのだろうか

「庶民は墓を作っていない」という暗黙の刷り込みがなされているように思う

墓は、エライ人だけに許された特権のように…

 

民俗学者の中には

日本人は死体を「汚い」「怖い」ものと考えて、お墓を作らずに野山に捨てていたと考える人もいる

 

はたしてそうなのであろうか?

 

日本の歴史や、神話を紐解いてみても

日本人の死生観は、死者に対する尊敬と感謝で満ち溢れているようにも感じる

 

季節毎の行事で死者を祭り

身近な存在として、日頃の幸福を先祖に感謝し

自分の身の存在を先祖に投影することが自然に行なわれてきたようだ

 

この日本人の本来持っている

先祖に対する崇拝する気持ちが

「穢れ」のように解釈されてしまうのには、マスコミの報道の仕方にもひとつの原因があるように思われる

 

夏に行なわれる心霊特集

ホラーの漫画や映画などでスリルと恐怖心を味わうなど

死者に対して「汚い」「怖い」というイメージを刷り込ませてしまっているのではないか?

 

このように死者を冒涜し、ないがしろにすることは

自分自身の存在否定にもなりかねない

 

「怖い」存在から、本来の「尊ぶ」存在へと認識を変化させることで

日本人が本来持っている、人間の「和」の心が浮き彫りになってくるように思われる

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