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2017-08

直系ではない継体天皇の即位②

日本書記において、継体天皇について書かれている項目は
ほとんど朝鮮半島がらみのことが書かれている

百済が朝鮮半島の西南部を得たいと
日本が足場を置いていた任那(加羅諸国)からの4県の割譲の承認を求めてきた

大伴金村は百済との友好関係が大切だと考えて
この割譲を承認したが
このことによって大伴金村に対する不満が巻き起こり
このことが原因で政権の大立者が失脚することになる

また新羅も任那に干渉しはじめ
その勢力を排除するために
継体天皇は近江の毛野臣に6万人の軍政を用意して
任那に向かわせようとした

そこに伏兵が現れる
北九州に基盤を置く筑紫君磐井(つくぢのきみいわい)だった

この筑紫君磐井は新羅から賄賂をもらったから
妨害に来たと言われている

筑紫君磐井は、九州の北部の豪族を次々と倒して
この地の基盤を固め玄界灘を海上封鎖し毛野臣軍の朝鮮半島への航路を防いだ

朝鮮半島への遠征軍の将軍である近江の毛野臣は筑紫君磐井を討伐すべく軍をあげ
九州の北部を舞台に戦闘を開始した
これを磐井の乱(527年)という
この磐井の乱を鎮圧するのに朝廷は苦労した

ついに大伴金村は、大連の物部麁鹿火(もののべのあらかい)に全権を委ね九州に向かわせることにした
その翌年の528年に、物部麁鹿火は筑紫の三井郡(現在の福岡県小郡市周辺)で筑紫君磐井を討ち取り、磐井の乱は終わった

磐井の乱は一豪族のたんなる反抗ではないのだ

朝廷はこの時期から、今までは各地域の豪族に任せていた関節支配から
朝廷が人民を支配する直接支配へと舵をきっていった

この方針に反抗したのが磐井の乱だったといわれている
筑紫君磐井は、新羅と独自に交易を行い
権益を保ってきたが、それが脅かされる恐れに対しての反乱だった

地方の権力を守ろうとした豪族と
大和王権との戦いだったのだ

地方の豪族が中央政権に逆らうことは、この磐井の乱を最後になくなり
これ以降、大和王権が中央集権化に向けて加速していくのだった

直系ではない継体天皇の即位①

第25代天皇の武烈天皇がわずか18歳で崩御したことで
天皇直系の皇位継承者が誰もいなくなってしまった

これは大和王権が始まって以来の大きな事件だった

武烈天皇の時代に平群氏を滅ぼして朝廷の後ろ盾となった
大伴金村(おおとものかなむら)は
仲哀天皇の5世にあたる子孫の倭彦王(やまとひこおう)が丹波にいることを知り
時期天皇になってもらうために兵を使って迎えに行かせた

しかし、倭彦王は兵を見るなり話も聞かず
殺されてしまうと勘違いをして失踪してしまった

倭彦王は困ってしまい
次の天皇候補者とし応神天皇の5世である北陸にいる男大迹王(おおどのおう)を立てることにした

男大迹王は、この申し出に最初は難色を示していたが
ついに臣下の願いを聞き入れて承諾した

男大迹王は河内の樟葉宮(現在の大阪府枚方市)で即位
第26代の継体天皇が誕生した

皇位継承者が不在という前代未聞の危機も乗り越えることができた

応神天皇の5世という
直系とは縁遠い天皇の即位だったが
そのことを補うかのように
継体天皇は皇后に仁賢天皇の娘である手白香皇女(たしらかのひめみこ)を迎えた

この継体天皇の体制は
北陸の豪族が攻め上がり、従来とは異なる新王朝を設立したという説もある

継体天皇は樟葉の次に筒城(現在の京都府京田付近)に遷宮して
山城の乙訓(現在の京都府長岡京市付近)に移り
その後、大和の磐余(現在の奈良県桜井市)に宮を置いた
大和に入ったのは即位から20年もの月日が経っていた

旧王朝を倒すのに時間がかかってしまったため
大和入りが遅れたという

しかし、この継体天皇は日本書記の中では扱いが弱い
新王朝を創設した華々しい様子では語られてはいない
北陸の豪族が朝廷に居座ったようでもなく、武烈天皇の臣下がそのまま残っているので
新王朝を創設したという説にもいろいろ疑問が残る

直系ではない継体天皇の即位に対し
快く思っていない勢力もあったようだが
継体天皇は、旧勢力を脅かすようなこともなく
手白香皇女の婿扱いという地味な存在だったかもしれない

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