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2014-11

核家族が失うもの

封建的大家族の崩壊は、戦後の日本の社会を大きく変えていった

戦後のシステムの変化が、封建的大家族を崩壊に導いた…と言った方が正しいのかもしれない

 

そのシステムの変化がお墓の変化にも大きく表れている

 

幕末から明治にかけての政治の変化

女性解放運動による運動

そして戦後の民主主義社会の確立

 

これらが連動して、封建的大家族が崩壊していった

 

家に縛られていると嘆いてきた女性たちは

自由を求め、政治への参加を求め、そして男女平等を訴えて

新しい女性の生き方を確立していき

生き方の選択肢が増えていき

結果的に自由を謳歌しているのだろうか…?と疑問も残る

 

フェミニズム運動に見られる

女性の家庭内における不自由さ

男性の封建的な態度に対して不満を爆発させて得た自由は

本当に女性を幸せにしたのだろうか?

 

封建的大家族の崩壊により

個々の考えが重視されるようになってくる

すなわちそれは、縦の先祖、子孫への繋がりを

あまり意識することのない生活への変化していく

 

大家族の場合は、その環境から

日常的にご先祖様への感謝を強制され

そのおかげもあり、日頃から自分の存在が繋がっていることを自然と意識することができるのである

 

しかし、その自由は女性を逆に縛り付けているようにも見える

自由を与えられたが、扱いきれていない

役割分担が昔ほどハッキリとしていないので

不満も起こりやすい

核家族化が進み、それぞれのルールで家庭生活を維持するので

問題も起きやすい

 

大家族は、代々その家それぞれのルールがあり

嫁に来たものは、その家のルールに従って生きていく

新しいライフスタイルの模索などは皆無である

 

現代の女性からみると、かなり窮屈なようにも見えるかもしれないが

本当に窮屈だったのだろうか?

 

大家族の家事、育児、家業の手伝い

姑や舅への気遣い

そして家を守ることへの責任

 

地縁、血縁の結束が強くなれば

必然的にお墓の日常度も増してくる

感謝や報告も増えてくる

そして、いずれは自分もその中に入る実感

子や孫達へ繋いでいくこと…

 

 

お墓が物理的に身近な存在であることは

その意味あいも大きく変化している

 

一件窮屈に見えがちな大家族制度だが

本質を今一度、見直す機会がきているようにも思える

 

先祖崇拝の考え方

古代の中国は、アジア圏において先祖祭祀において先進国であった

近隣の、日本や朝鮮半島が、先祖祭祀をないがしろにしていた…というわけではなく

先祖祭祀や、祖先崇拝の習慣は存在していた

中国が先進国である…という意味には

先祖祭祀や、祖先崇拝を思想として体系化し、それを記録に残していた…という意味である

この概念から考えると、日本や朝鮮半島は、先祖祭祀における後進国であると言わざるをえない

古代中国は、現代まで約3000年以上もの間

家庭生活はもちろん、政治にいたるまで常に先祖祭祀や祖先崇拝は重要な行事であり、正当性を持って行われてきた

ここでの中国の先祖祭祀や祖先崇拝と比較のため

儒教の先祖祭祀や祖先崇拝と比べてみる

ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは

儒教は、カテゴリーとして「宗教」には属さないと考え

儒教は、世俗社会の「道徳倫理」であると解釈している

以下、マックス・ウェーバーの言葉を引用する

「救済の思想などは、儒教的倫理にはもちろんまったく存在しなかった。

儒教徒は、社会的な無作法というあさましい野蛮から救済されること以外に、霊魂の輪廻からも、あの世で受ける殃罰からも(両者を儒教は知らなかった)、生からも(これを儒教は肯定していた)、与えられた社会的世俗からも(この世俗のチャンスを儒教は自制によって抜け目なくものにする考えだった)、悪または原罪からも(原罪というものを儒教は知らなかった)、その他のなにかあることからも、「救済」されることを願わなかった。「罪」であると儒教にみなされることができたのは、ただ、孝弟というひとつの社会的な基本義務の侵害だけであった」

このように、儒教は、現実生活での倫理に従い義務として

先祖祭祀や祖先崇拝を行ってきた

先祖祭祀が死後の問題として、死後の世界が思想的に深められることはなかったので

儒教は、宗教ではない…という考えである

仏教は、輪廻転生や因果応報の考えで

儒教の欠陥を補った形になったのだが

そのような基本問題が儒教の先祖祭祀や祖先崇拝には見られないのである

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