Home > Archives > 2014-08

2014-08

お墓の意味

宗教観の薄くなった現代では

とかく死に対するネガティブな感情が大きくなってきた

 

物質科学至上主義の世の中では

死は「無」であり「絶望」と捉えられることが多い

 

しかし、死は誰もが平等に訪れる避けられないものである

この世に誕生した時から人を含めて全ての生命体が死へのカウントダウンをスタートさせる

 

思想の違いや、哲学の違いなどで

その死への捉え方は大きく変わってくる

 

絶望の淵に立つもの

覚悟を決めるもの

残された家族や友人へ言葉を伝えるもの

悟りを開き受容するもの…

 

どのような心のあり方であったとしても

必ず訪れるものならば

穏やかに逝きたいと願うことも

人間としての欲求である

 

そして、その死の迎え方は

残されたもの達が残りの人生を生きていく上でも大きな影響を及ぼす

 

愛する人の死を受容するためには

先に旅立つ人間の哲学も大きく影響するからだ

 

満足した人生を送った人の人生の最期は

残されたもの達の後悔を少なくする

 

そして、その残されたもの達の想いを

時間をかけて消化させていく意味でも

お墓の存在が役立つことも多い

 

お墓の意味は多々あれど

残されたもの達が、故人の死を消化させる時間と向き合うために

有形の存在が、とても癒されることになるのは

否定しがたい事実なのである

 

「禍」と「直毘」

イザナギが、川の中瀬に身を沈めて体をすすいだ時にあらわれた

たくさんの禍々しい神が

八十禍津日神(やそまがつひのかみ)と大禍津日神(おおまがつひのかみ)である

 

この二神は、ひどいけがれの黄泉の国へ行った際の「けがれ」がもとで現れた神である

 

そして、この禍を直すために現れたのが

「けがれ」と「禍事」をもとに戻す力のある

神直毘神(かむなおびのかみ)と大直毘神(おほなほびのかみ)である

 

この神々の、曲がる力と直す力は対極にあり

プラスとマイナス

人生の災いと、災いで曲がったものをまっすぐに戻し正常な状態に回復することを意味している

 

イザナギと、イザナミこそが対極にあり
それを比較してみると

「男」と「女」

「火」と「水」

「けがれ」と「みそぎ」

「あの世(黄泉)」と「この世」=「死」と「生」

「もの」と「たま」

 

となっている

 

イザナギとイザナミで生んだ「もの」

現れたのが「たま」

である

 

イザナミとイザナギは、まぐわいをすることで「もの」を生み続けた

神話の中では「もの」は、男女の交わりによって女性から生まれる

 

「もの」で解釈する次元では

生物や、生物的なものは
プラスとマイナスを交互に繰り返すサイクルの中にある

 

お産の「産褥穢」によって「新たな命」が誕生する

産褥穢はマイナス、誕生はプラスである

 

 

「たま」で解釈する次元は男女の交わりがなく

神々は、生まれるのではなく、現れるのである

 

この「たま」と「もの」の概念は
「天」と「地」の概念と言ってもいいのかもしれない

「もの」は、自然界における「物質、現象」の全て
これらは、五官で感じることができるものである

「たま」は「思想や観念」であり
五官では、とらえることができないものである

「物質や現象」は常に生まれては消え
生と死を繰り返しているが

「たま」の「思想や概念」は決して消えることはなく
忘れたり、その風習が物理的に行われなくても
「思い」は決して消えることはないのである

Home > Archives > 2014-08

 

このページのTOPに戻る