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2010-06

家の伝統

農民の多くは「家督」という言葉を、ほぼ「不動産」と同じ意味として理解している場合もあるが

「家督」と「不動産」は、全く同じではなく

何かモノ以外の「無形のあるもの」を一緒に相続する…という感じはあるようだ

それを言い表す言葉は、まだ生まれていないように思われるが

いつかはいい名称が生まれるのだろう

 

商人の間では、それを「暖簾」「得意」「信用」と言い

継承するものとして評価できるようになってきている

しかし、農家には、それより深い「何か」がありながら

適切な言葉がないことに対しては

私たちも、国語に対して自然に任せるのではなく

今後の課題として考えていかなければならないと思われる

 

仮に「伝統」という言葉を使って話を進めていく

(少し受身のような言葉にも感じられるが…)

「伝統」は、今存在する以上に、さまざまな角度から高めていき

次世代に伝えていくものであり

外からでも、耳と目によって存在を確かめられるものである

これは「家督」の中心ではないにしても

包むように周辺を取り囲んでいたように思われる

 

「諸道」や「職人」というものも

耕作以外の働きにより、交換して衣食住をまかなってきた

 

術芸や業務そのものに対する態度や

それを社会に役立たせようとするシステムなどを

家督の中心と考えるのがセオリーで

口伝、家伝という特別な教育法があった

 

これは土地のような「目に見える財産」の代わりに

商売などには、特に重要視されていた

 

それよりも顕著なのが

「役人」という階級だった

世襲の慣例が通っていたころは

これもまた立派な「家督」だったのである

 

土地などを相続するばかりではなく

役人や学者となって、完全な独立した家を新立することも可能であった

 

それは単に「伝授」と言い方に留まらず

受け継いできた者の意志や、子孫の理解が伴い

家門は、年代を超越した縦の結合体なのである

家督の重要性

「家督」と「分家」のことについては以前も説明したが

昔は、分け与える財産が、生産性のある田畠であることが多く

その家督を長男が継ぎ、次男、三男は分家と呼ばれていた

家督を分けてもらえば「分家」となり

仮に、家督から財産(田畠など)を継いだわけではなく

親の職業を継がずに、何もないところから財を成していく者は

「別本家」と呼ばれていたように思われる

 

ひとつの例として

ある貧しい医者の家があり

その妹が離婚して息子を連れて実家に帰ってきた

妹は亡くなったが、その息子は医者にはならず

商家に奉公して真面目によく働き

資産を蓄え、母の実家の近くで商いを始めた

商売の才能があったらしく

一代で相当の富を得て

4、5人いた子を皆、分家させることもできた

そして自分の家をあえて「本家」と呼ばせて

母の実家を本家とは呼ばなかったのである

医者の家の家督は少なく

あえて「分家」になる道理はなかったのである

いわば、この商人は「御先祖様になった」のだ

 

自分の才能を遺憾なく発揮し

自らの力で一から財を成し

独自に「御先祖様」になった者も多かった

 

親の跡を継がず

自分の力で財を成したのだから

本家・分家の間柄はもっとクールなものでもよいのではないか?

という思想が発生し、感化される者も多くなってきた

家の繋がりを割り切って考えるのだ

現代のように、親の商売を継ぐ者が昔より少ない場合は

その傾向が顕著に見られる

農業を基盤に代々生活していた家は

目に見えて明らかな家督があった

親は、自分の死後も永遠に家がつながるように計画して

次男や三男にも分け与えられるように苦労してきたのだ

 

しかし親の家督を当てにしないで

財を成したものは

家の存続や、先祖に対する感謝が薄れているように感じる

本当に自分の力のみなのか?

家督とは有形財産だけなのか?

 

一代で財を成すには

相当の才能が必要である

勤勉な性格、健康な体、優秀な頭脳などがなければ成し遂げられないことであろう

しかし、それらは先祖から受け継いだ「無形の家督」ではないだろうか?

田畠のように目に見える家督が少ない現代だからこそ

子孫と先祖を繋ぐ、遺伝子情報が自分が働くことができる「無形の家督」だと解釈し

その家督を残してくれた御先祖様に感謝して生きていくことが大切でなのではないだろうか

武家が繁栄した理由

長子相続制度があたりまえになっていた中世のころでも

親は次の子どものために分け与える土地を探し開墾していくような苦労を重ねてきた

 

中世の武蔵国(東京・神奈川・埼玉)に『武蔵七党系図』という

かなり詳しい系図が存在している

その系図を紐解くと

有力な武士の比較的長生きした人は

三戸、四戸の分家を創建していることがわかる

 

まだ若く元気なうちに隠居し

長子に嫁を迎えて本家を渡し

新たに開墾に着手するか、縁故のある田畑を引取るなどして

次男、三男以下の家を作っていったと思われる

 

「七党」というのは

七党の大きな系列が対立もしていたが

それらが入り混じり縁組をし、助け合っていたとも思われる

 

新地の開発は早いもの勝ちだった

最初から縄張りのようなものがあったわけではなく

開墾した者の所有となるのが慣わしであった

そうして少しずつ、本家から遠く離れたところまで進出していったのである

このころには未開の土地が十分にあった

それらを開拓していった親心が

田舎の繁栄を支えていったのであろう

 

しかし、いつまでも未開の地が残っているわけではなく

土地が少なくなってくると

血眼になって境を争うようなことが起こってきた

そうなると相続者以外の地位は目に見えて悪くなってきたのである

 

不平があり、野心のある若者などは

家を飛び出し、チャンスを探しに旅に出た

田舎では、娘の行き先に苦慮していたり

もう少し一門を大きくしたいと願う家も多く

京都などから出てきた者は

家柄や由緒も人に知られていたので

一段と受けが良かった

 

政治上の背景も手伝って

あっという間に、九州から東北まで勢力を広めていったのである

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