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古代日本のお墓 Archive

第二六回 「古代日本のお墓~その4~」・・(平成20年4月1日)

 文献史料としての日本神話を読み解く場合、その史料価値が高いのは、やはり『古事記』『日本書紀』になります。記紀のうち神話に当たるのが、『古事記』上巻「神代」と、『日本書紀』巻一・巻二です。その神話の中で死後の世界を具体的に描いているのは、「黄泉の国」のイザナギ・イザナミの話だけですが、この話は長い期間にわたって、日本人の死後観に大きな影響を与えてきました。

 

ところで、神話は、数多くの民族の中で語り継がれ、民族の、あるいは人々それぞれが困難に直面した時に、神話を教訓として困難を乗り越えてきました。ですが、それは史実ではなく、「作り話」「おとぎ話」に過ぎないという向きもあるでしょう。こうした神話の価値を正しく見直し、現代に明らかにしたのは、フランスの構造人類学者レヴィ=ストロースやスイスの心理学者トーマス=ユングです。神話は日常に意識される世界と合わない、いわば夢のような、つじつまの合わないストーリーが展開されますが、それは無意識の世界をあらわしているからだとします。なにかの機会にその人が無意識に経験したこと、あるいは経験したことが無意識の中に蓄えられていったもの、これらを表現したものが神話なのです。無意識があらわれる「夢」と分析することで無意識の世界の精神分析ができることを発見したのは、オーストリアの心理学者フロイトですが、彼の理論が大きなヒントとなって、ストロースやユングの「神話学」が誕生しました。

ストロースとユングは、直接出会ったことはなかったようですが、期せずして「神話は一種の集団(人類や民族)の夢(無意識の世界)であって、隠れた意味を示すような解釈ができる」と述べています(E・リーチ『レヴィ=ストロース』・ユング『神話学とはなにか』など)。なぜそういえるのかというと、世界中に伝承されてきたおびただしい数の「神話」「昔話」には、お互いに影響しあうことがなくても、似通った内容の物語がたくさんあるからです。もし、誰かが恣意的に作った空想物語であれば、神話の内容はもっと多岐にわたるはずです。しかし、非常に似通った神話や昔話が、その当時、交流することはありえなかったであろう世界各地で創られ、受け継がれています。こうした事実から神話や昔話には、人類(民族・集団)が実際に経験した共通の内容を無意識に様々な形で表現したものだと言える。ストロースやユングはこのように指摘しています。

もっとわかりやすくいえば、われわれが普段常識だと思っている合理的・科学的・論理的な見方からすると、どうしても非常識としか思われない日本神話の中に、実は現代のわれわれにとっても、とても大切な祖先からのメッセージが隠されているのだ、ということになります。

さて、日本神話「神代」の、日本の国が誕生する「国生み」の物語には、お墓や墓石の原点となる重要な話があり、それは確実に現代にも受け継がれています。 天地の始まり、神々の誕生、死、死後の世界へと物語りはどのように展開し、また日本人の原点となる世界観や死生観の中で死や穢れやお墓の問題がどのように語られ、我々現代の日本人にどんな意味のメッセージを送っているかを知るために、『古事記』の神代の物語を読み解いていくことにしましょう。

第二五回 「古代日本のお墓~その3~」・・(平成20年3月1日)

 歴史研究において、遺跡の研究と並んで重要なのは、文献の研究です。

 

 日本古代史研究において重視される文献として中国の史書(『漢書』『後漢書』など)があります。これらは、日本にまだ文字がなかった、あるいは伝わっていなかった時代の文献の為、もちろんきわめて重要な史料です。ですが、やはり外国の別の民族の手による史料の為、客観性がある反面、日本民族の意識を探るためにはどうしても物足りないと思われます。

 すると、少々時代は下ってしまうのですが、『古事記』『日本書紀』の他、『風土記』『祝詞』『万葉集』といった奈良時代前後の史料から、探っていくことになります。

 今回はまず、これらの歴史資料に見える、われわれが生きる世の中(この世)とは別の世界(あの世)についてお話してみようと思います。

 これらの史料を見るとき、忘れてはいけないことがあります。

 一つは天皇の問題です。上記の史料は、大化改新後の天皇を中心とした中央集権体制の確立に向かう時代です。このため、神話によって天皇の正当性を主張する内容が多く含まれていること、もっと言えば、これらの史料の多くが、そのために製作されているということを念頭に置かねばなりません。

 今ひとつは、これらの史料が編纂された時代には、すでに仏教や中国思想など、中国文化が伝来しているということです。日本人本来の民族意識や死生観を探る時、中国文化の影響をしっかり見極めて外していかないとならないでしょう。

 日本民族の「あの世」の特徴は、大きく二点あげられます。

 ひとつは、あの世がいくつも存在しているということ。

 もうひとつは、この世と断絶したはるか彼方の世界ではなく、例えば、注連縄をはって気持ちを変えることで眼前にあの世を作り出すことができるように、この世との往来が可能な世界であるということです。

 このことは、お墓にも通じる重要な特徴です。

【高天原】

 地上のこの世「中つ国(豊葦原中津国)」に対する「天つ国」で、天上他界といわれ天照大神が治める神々の住む国です。

 『日本書紀』「尸(かばね)を天(高天原)に到さしむ。便ち喪屋を造りて殯(もがり)す」という記述があります(天若日子の神話)が、この例外を除いて、高天原を死者の国と表現している記述はありません。

【常世国・妣が国】

 海のはるか彼方にある理想的な長寿の国といわれる海上他界です。

 『古事記』では、大国主命と共に日本を作った少彦名の命が、国堅めを終えて帰っていった海原として表現されています。また、神武天皇が海上を渡り「常世の国」へ行き、別の兄弟は海原に入って「妣の国」へ行った、という記述もあります。「妣」とは「亡き母」のことです。

 『丹後国風土記』逸文では、浦島伝説の浦島が亀に乗って行った常世を「蓬山」(蓬莱山)と表現しています。これは、道教の影響を受けたもので、神仙の住む不老長生の楽土を指しています。

 後に仏教の影響を受けると、観音浄土である「補陀洛山=補陀洛浄土」と習合します。

【黄泉国】

 「根の国」ともいわれ、イザナギの命とイザナミの命が大八州(日本)の国造りの過程で火の神(迦倶土神)を生んだ際に死亡して旅立った死者の国で、イザナミの命やスサノヲの命が支配する地下他界です。

 妻の死を嘆いて、黄泉の国を訪れたイザナギが目にしたのは、全身に蛆虫がわき、頭髪から足先までに八つの雷神が宿るイザナミの骸でした。黄泉の国から戻ったイザナギは「死の穢れ」を洗い清めるため、筑紫の日向で「禊ぎ祓い」をしています。これが「死穢」「禊ぎ」の根拠です。後に詳述する予定ですが、この「死穢」「禊ぎ」は今日のお墓や葬儀まで伝わる、日本の文化です。

 今ここで指摘したいのは、黄泉の国、つまり死者の国に生者が往来できる、ということです。

 『日本書紀』では、黄泉の国を「殯●(もがり)の処」とする記述もあります。「殯宮」とは埋葬前の遺体を一定期間、仮安置する場所です。ここでは黄泉の国が「殯宮」を示唆している可能性を指摘するにとどめて起きます。

【根の国・妣が国】

 『古事記』では、イザナギの命が禊ぎをした際、天照大神・月読之命・須佐之男之命にそれぞれ高天原・夜食国・海原を治めるように命じています。これに対し、スサノヲは海原の統治を拒否して「僕は妣の国、根の堅州国へ行きたい」と泣き喚く記事があります。この妣はイザナミを指しますので、「根の国」とは黄泉の国のことになります。

【神奈備山】

 「神奈備」とは、神が天降った神聖な山や森を指します。『万葉集』の「挽歌」や『風土記』『祝詞』に多く用例が見られ、山上他界・山中他界といわれます。「死者は山へ還る」という民俗の重要な基盤と見られます。

 以上のように、天上他界・海上他界・山中(山上)他界・地下他界の四つに分けることができ、空間的には地上に対して垂直方向と水平方向の二種に分けることができます。

 四つの他界のうち「死者の国」とされる他界は、天上他界の高天原以外の三つの他界です。このうち、海上他界の常世国は道教の影響(不老不死の国:蓬莱山)や仏教の影響(観音浄土)をうけて、理想郷的な扱いになっています。また天上他界である高天原も、後に民俗として「氏神様」があらわれても皇族以外がここまで上るとは考えられてはいなかったようです。

 冒頭で述べたように、日本の古代史料を読み解く際に、天皇家の存在は考慮しなくてはなりません。神話に出てくる神々は、日本人と日本人の祖先である天皇家の祖先です。そして私たち日本人の祖先は、これらの資料の中では、高天原から高千穂に降臨したことと、神武天皇の母が海中のワニで常世の国からやってきたと記されています。ここに日本人の起源が「山の民」と「海の民」であることを示しています。そしてこのことは同時に、私たちが死後に還るべき地は「山」であり「海」であることを示唆しています。

第二四回 「古代日本のお墓~その2~」・・(平成20年2月1日)

引き続き、古代日本のお墓について考えてみます。

【古墳時代のお墓】

 古墳時代は、その名の通り、お墓に象徴される時代です。
全国各地に巨大な古墳が造営され、多くの副葬品が埋葬されました。弥生時代の項でも触れましたが、集団生活の中で階級差が生まれるに従い、支配階級と庶民のお墓に差が出てきます。
社会がムラ→クニ→国家へと規模が拡大するにつれて、古墳もより巨大なものへと姿を変えていきました。
巨大な古墳の造営は、すなわち、大規模な土木工事です。当然多くの従事者を必要とし、また彼らを統率する権力が必要となります。
そして埴輪に代表される数多くの副葬品の作成は、そのクニあるいは国家の生産力の誇示とも言えます。
こうした古墳造営による国家権力の誇示は、支配地域の住人に対するだけではなく、他国に対しての国力の誇示という役割も担っていたのでしょう。特に、大仙古墳(少し上の世代であれば、『仁徳天皇稜』の方が馴染み深いかもしれませんね)のような巨大古墳が多く造営された4~5世紀の副葬品には、武具・馬具が多く見られることから、この時代はヤマト朝廷の日本統一の過程としての、各国家間での紛争が多くあったことが想像できます。
実際に他の史料を調べてみても、そのような時代であったことを窺い知ることができます。

 大規模な古墳が多く造営された時代の庶民のお墓については、大雑把に調べてみたところ、あまり多くの遺跡がないようです。
これは、単純に発見されていないだけなのかもしれませんが、やはり、庶民の生活も含めた多大な労力が、古墳造営事業と戦争に向けられていたから、ではないかと思います。自分たちのために、身分相応に立派なお墓を作る余力がなかった、と思います。
実際、古墳時代前期の遺跡には、弥生時代から受け継がれていた方形周溝墓群の遺跡が全国で発掘されていますし、古墳時代後期、つまりヤマト朝廷の支配が確立したであろう時代になると、古墳の規模も小型化し、変わりに『装飾古墳』と呼ばれる、凝った造りの古墳が多くなり、同時に斜面を利用した横穴式の古墳群(「群集墳」と呼ばれます)の遺跡が見られるようになります。
一部の民俗学者には「日本人は死体はきたなく、こわいものと捉え、お墓を造らず野山に捨てた」と考える方もおられるようですが、縄文遺跡・弥生遺跡と共通して見られる、「集落の中にお墓を造る」つまり、先祖とともに暮らしていく、という価値観を持っていた古代日本人が、古墳時代になって、急に価値観を180度変えてしまった、とは考えにくいです。
当時が、日本国家の統一過程であったと言うことは、当然のことですが、戦乱の時代であったと言えます。
一般民衆は、平時には権力者の古墳造営のために労役し、有事には徴兵されていたであろうことは容易に想像できます。
このため、自らのお墓に注ぐ労力がどうしても軽減されてしまうのはやむをえないことだったのではないでしょうか?だからこそ、古墳時代世紀の民衆のお墓の遺跡があまり見られないのであり、そして古墳の規模が縮小してきた古墳時代後期には、再び多くの群集墳が現れてきたのだと思います。

 そしてもう一つ、副葬品に着目してみたいと思います。
副葬品は、その生産過程は、生きている人々の目に触れます。ですが埋葬されてしまえば、これらの品々は人目に触れることはありません。単純に後世に至るまで権力の誇示だけが目的であれば、死者と共に埋めてしまうというのは、あまり合理的な思考では無いように思われます。やはり「死者の死後の生活」を考えていたためであり、それはつまり、「死後の世界」の存在を意識していた、ということに他ならないと思います。

 こうした、古墳の造営に国力を注いできた時代は、大化の改新前後んに終焉を迎えます。
その理由としては、先にも触れたように、古墳造営による権力誇示の必要がなくなったこともありますが、仏教の伝来に伴い、古墳造営から寺院建築へと力を向ける先が変わったこともあるでしょう。
そして646年に「大化薄葬令」が出されます。これは中国の例に倣い、身分ごとに埋葬方法について細かく規定された法です。この中では、庶民の埋葬方法についても規定されています。
このことは、支配階級から民衆に至るまで、死者を手厚く埋葬していたという事実を示しているのではないでしょうか?もちろん天皇のお墓よりも立派なお墓を作らせない、という目的もあったでしょう。
ですが、それ以上に、規制しなくてはならないほどに、当時の日本人が、お墓に対して情熱を注いでいた、ということを証明しているように思えます。まさに、ここに古代日本人の死生観を感じ取ることができるように、私は思えます。

第二三回 「古代日本のお墓~その1~」・・(平成20年1月1日)

 『文化人類学事典』(弘文堂)では墓について、「一つの文化・社会のいろいろな特徴が集中して表現されている場所」と書かれています。
 「お墓とはなにか?」を考えるに当たり、後世、中国文化や仏教の影響を受ける以前のお墓を見ることで、日本人本来のお墓に対する思いを知ることができる、それはひいては日本文化の特徴を知ることにつながるかと思います。
 ということで、時代を追って、古代日本のお墓について考えていくことにしましょう。

 

【縄文時代のお墓】

 縄文時代の遺跡として、いろいろな意味で定説を覆して話題になった、青森県の三内丸山遺跡があります。
三内丸山遺跡については、多くの書籍によって紹介されておりますので、詳細はそちらに譲りますが、ここで注目したいのは、「二列の集団墓群」です。
 三内丸山遺跡は、1994年8月に、野球場と公園の建設が中止され、かなりの遺跡がつぶされた後に残ったものです。
そして、現場からは大量の縄文土器や遺構と、道の両側の斜面に向き合って、整然と二列に並ぶ約100基の土坑墓がありました。
 発掘当初、この道の長さは約50m、道の両側の斜面に、向き合って整然と二列に並ぶ約100基の土坑墓がありました。
この道幅は15mもあり発掘現場の中央を東西に貫くメインストリートです。
 その後の発掘で、この道は約500mほど確認され、その先は海まで続いていると推測されています。
 集落の中央を貫く、大きな道。そしてそれは海へと伸びている。それだけを見ても、この道は、三内丸山遺跡の集落にとって、極めて重要なライフラインであることがわかります。
その重要な道の両側に、どうしてお墓が作られていたのでしょうか?
 もし、死者を忌み嫌い、怖い存在と捉えていれば、墓地は集落から隔離された場所に置かれるのが普通ではないでしょうか。学術的な見地からは、この墓地の意味について特に語られてはいないようですが、少なくとも、三内丸山の集落においては、縄文人は死者を忌み嫌う存在としては捉えていない、そう感じさせられます。

【弥生時代のお墓】

 佐賀県吉野ヶ里遺跡は、内外二重の堀に囲まれた環濠遺跡です。
その面積は約30ヘクタールもあり、このため「邪馬台国」の跡ではないか、とさかんに騒がれました。この遺跡は、三内丸山遺跡よりも約3000年後、今から2200年ほど前の弥生時代のものです。
 この遺跡のお墓の特徴は、以下の通りです。

・北九州一帯に特有の埋葬法である、大人用の「甕棺」が2000基以上出土したこと。

・二列になった墓列(列状墓群)がある。

・古墳時代の原型と見られる墳丘墓が二列の墓群の北側にあること。

・集落の北側に出入口と道があり、墳丘墓の横から列状の埋葬地を抜けて居住区へと続いています。

 三内丸山遺跡と共通しているのは、埋葬地が、居住区と隣接している、しかも集落の中でも比較的重要と思われる位置にある点です。
これは、古代日本人が、「死者も生きている人たちとともに暮らしている」という考えを持っていたことを示しているのではないでしょうか。
 墳丘墓の存在は、この時代には身分差がはっきりと存在していたことを示しています。
吉野ヶ里を訪れる当時の人々は、まず墳丘墓(おそらくは過去の集落の長たちでしょう)に触れ、続いて集落のご先祖様たちの間を抜けて、それから集落の人々と接することになります。
逆に集落から出て行く人たちは、最後に墳丘墓を抜けて外に出て行きます。
このことは、墳丘墓に眠る人たちに対する敬意を示した構造だと考えられないでしょうか。

 大人用の「甕棺」が多く出土するのは北九州一体です。子供用の甕棺は、ほぼ全国の縄文・弥生遺跡より出土しています。
また、中国大陸でも、新石器時代より前漢末期くらいまではさかんに利用されています。
また朝鮮半島からも出土していることから、子供用の甕棺については、中国大陸の影響を見ることができます。
 北九州で出土する甕棺には、二次葬・複葬といって、一度骨にしてから改めて甕棺に収められたものがあります。
 こうした、大陸文化の影響である甕棺に納める行為、二次葬・複葬といった、手間のかかる埋葬こそ、「死体を大切に扱っている」ということの証明になると思います。

 そして、吉野ヶ里遺跡からは、多くの副葬品も出土しています。
副葬品は、一般的には権力の誇示・象徴とされておりますが、もっと現実的に考えてみると、「死後の世界」のために収められているものだと思います。
そもそも、土の下に埋められてしまうものですから、後世の人々に対して誇示することなどできないでしょう。
 現代の私達が棺桶に納める品として、お花などの供物の他に、杖や草鞋、死装束、小銭を副葬品として納める習慣があります。これらはいずれも、死後の旅のために必要な品々として納められています。
 副葬品があるということは、「死後の世界」の存在を信じている、ということの具体的な証拠になるかと思います。

 このように見てきますと、縄文・弥生の古代日本人は、死者を大切に扱い、死後の世界の存在を信じていた、言えるのではないでしょうか。

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