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2016-05

神武の東征②

天にいる高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)は熊野から先に進むと
反抗する神がたくさん存在するからと案内役として八咫烏(ヤタガラス)を送ってきた

 

八咫烏の案内に従いついていくと

吉野川の下流で魚を採っている神に遭遇した

山に入ると尾お生やした神がいた

双方とも、伊波礼毘古(イワレビコ)に忠誠を誓うために参上した神だった

 

これらの神は、のちに
大和王権を支える豪族の祖先神となる
これらのストーリーから、この物語は
大和の各豪族の伊波礼毘古に対する服属を示していると言える

 

八咫烏は通常3本足で書かれているが
実は、古事記や日本書紀には八咫烏の足の数の記述はなく

中国の神話の影響で3本足で描かれているに

 

八咫烏は現在

サッカーの日本代表のシンボルマークに採用されているが
その足も3本で描かれている

 

東征を進めていくと

奈良盆地の東南にある宇陀に
兄宇迦斯(エウカス)と弟宇迦斯(オトウカシ)という兄弟がいた

八咫烏が、その兄弟に伊波礼毘古に従うか問うと

兄は矢を放って八咫烏を追い返した

 

この兄は悪知恵を働かせて

いったん伊波礼毘古に従う姿勢を見せて欺き
罠を仕掛けた御殿を作り伊波礼毘古の暗殺を計画していた

 

この兄とは対照的に弟の方は

伊波礼毘古に従うことを示し、兄の暗躍を伊波礼毘古に報告した

そして、軍務を担当する道臣命(ミチノオミノミコト)らによって責め立てられて

兄宇迦斯は自分が罠を仕掛けた御殿で殺されることになる

いよいよ奈良盆地に入ってきた一行は忍坂(桜井市)に到着すると
尾の生えた土雲と呼ばれる大勢の土豪たちが

岩屋でうなり声を上げながら待ち構えていた
伊波礼毘古は料理を出して接待をして
油断した土豪たちを歌を合図に隙を見て打ち殺した

 

このように伊波礼毘古は従わない地元の勢力を駆遂していき
平定を進めていった

神武の東征①

鵜葺草葺不合命(ウカヤフキアエズノミコト)の子である神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)(のちの神武天皇)は
兄の五瀬命(イツセノミコト)と話し合い、東の地で政治を行うことに決めて
船で日向(ひむか)を旅立った

 

この神倭伊波礼毘古命による大和への大移動を神武東征という

 

まず、一行は豊予海峡を越えて宇佐に着き
宇沙都比古(ウサツヒコ)、宇沙都比売(ウサツヒメ)のもてなしを受けた

福岡県の岡田宮には1年滞在し、そこから瀬戸内海に入った
そのあと、広島県の多祁理宮(たけりのみや)に7年、岡山県の高島宮で8年暮らした

高島宮を出てから、大阪湾の楯津(東大阪市日下)では
大和の那賀須泥毘古(ナガスネビコ)の軍勢と戦闘になった
ここで神倭伊波礼毘古命の軍は大きな痛手を負うことになる

 

那賀須泥毘古との戦いは非常に激しいものとなった
兄の五瀬命は、この戦いで矢を受けて負傷した

五瀬命は「我々は太陽神の子なのに日に向かって布陣して戦ったので敗れた。日を背にして敵と戦おう」と言った

神倭伊波礼毘古命は兄の言葉に従って紀伊半島に沿って船で下り
熊野で上陸してから、南から大和に攻め上ることにした

 

しかし、男之水門(おのみなと)(大阪市泉南市)まで到達したら

兄の五瀬命が傷の悪化によって命を落としてしまう
日向を出発して16年経ったころのことだった
兄の死にもめげず神倭伊波礼毘古命は南へ進み
熊野村(和歌山県新宮市のあたり)に到着したが熊の姿が見えたとたんに
神倭伊波礼毘古命は兵士と共に意識を失った
すると高倉下(タカクラジ)という地元の者が現れて
一振りの大刀を献上した

それによって神倭伊波礼毘古命たちは意識を取り戻した
この大刀は天上にいる天照大御神(アマテラスオオミカミ)と高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)が神倭伊波礼毘古命の窮地を救うために
建御雷神(タケミカズテノカミ)に命じて下したものだった
大刀の力は強大で熊野の敵対する神を瞬く間に滅ぼしていった

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