Home > Archives > 2012-05

2012-05

神と人との交換構造と追善供養

私達は神社において

何の抵抗もなく

何の疑問もなく

神様に対して、様々な願いごとをする

 

また、村をあげてお祭をし

一年の豊作や豊漁を願い

平穏な日々が送れたことに感謝し

翌年もまた、同じ願いを繰り返す

 

人々からお祭されているのが

神様や氏神様や御先祖様…ということになってくるのだが

お祭されている側の神様なども

その願いごとを聞き届けてくれることになっている

 

古代中国でも

この仕組みはあるのだが

日本はご存知のように

おまつりすることで

人々はさまざまな祈願をし

供養してもらうかわりに

御先祖様がそのお返し(願いを叶える)という

「神と人との交換構造」が出来上がっている

 

では、お墓や仏壇の前で

御先祖様を供養する仏教では

この交換構造が成り立つのだろうか?

 

このことについては

インドの大乗仏教の論理だけでは

理屈が通らないことが多くある

 

しかし、お釈迦様のお墓である「ストゥーパ」を礼拝供養すると

長い間ご利益があり、死後に良いところ(天の世界)に生まれる

という「仏と人との交換」が見られる

 

だが、これが中国や日本の庶民仏教の追善供養になると

神社での神頼みと同じ状況になってくる

 

例えば、私たちは

何かに挑戦しようとしたり

困難に立ち向かう状況になった時は

お墓や仏壇の前で

亡き身内や、御先祖様に向かって

ご加護をお願いする

 

つまり、特定の宗教を信仰している場合を除いては

私達は、仏壇にまつられた御本尊様にではなく

無意識のうちに、亡くなった家族にお祈りをし、願いごとをしている

 

仏壇の前では「朝の祈願、夕べの感謝」といって

朝には家族の無事を願い

夕べには家族の一日が平穏無事だったことを感謝して手を合わせる

 

人々は、お墓や仏壇の前で、家族や個人の些細な事から命に関わる事まで

具体的で「現世利益」的な願いを祈ると

ほとんどその願い事は叶えられる

例え、その願い事が叶えられなくても

誰も御先祖様をうらんだりすることはない

つまり、仏教においても「仏と人の交換構造」が成り立っているのだ

しかし、これでは「神と人の交換構造」の焼きなおしに過ぎない

仏教は、この交換構造を

「供養による功徳の廻向」という考え方をもとにして

交換構造を創り上げていくことになる

庶民仏教的な六道輪廻

こちらで何度か説明している六道輪廻の考え方だか

これも、庶民の捉え方を無視することはできない

 

『中国思想史』を読みといていくと

中国仏教では、かなりはやくから

「六道輪廻するのは霊魂である」と考えられていたことがわかる

 

中国人の霊魂観は、今から少なくとも3000年以上も前からあったと

確認することができる

この中国の霊魂観が日本に大きな影響を与えていたことも確かである

日本が影響を受けたと思われる時代は、文献などから

特に飛鳥・奈良時代ではないかと考えられている

 

そんなことから日本もまた

「霊魂が六道輪廻する」という考え方をそのまま引き継いでいたのだろう

 

この場合は、庶民仏教というよりは

奈良時代の貴族や豪族などが写経や造仏などに死者の「霊」・「先霊」という表現を使って

さまざまな供養をしていたことが確認できる

 

おそらくこうした習慣が庶民にもなんらかの影響を与えたと思われる

 

また柳田國男氏の著書にも書かれているように

「人は死後、死霊となり、やがて祖霊へと浄化して神(=氏神様)となる」

という日本固有の信仰としての「霊魂観」を文献の上でどこまでさかのぼって確かめられるかは、とても難しい問題になってくる

 

もしもこれが日本の昔からの霊魂観であったとするならば

日本人は、古くから「霊魂は不滅なもの」と考えられてきたことになる

 

ちなみに『古事記』や『万葉集』で「たま」という観念があったことがわかる

この「たま」は「魂」「玉」「霊」「珠」などの漢字が当てられていて

いずれも「たま」と読ませている

 

日本に昔からこのように霊魂の考えが定着していたとするならば

朝鮮半島や、中国から

「霊魂が六道輪廻する」という考えかたが入ってきたとしても

スムーズに受け入れられたのではないかと思われる

 

霊魂は、永久不滅のものであり

その魂がどこに行き、何となるのかの違いだけで

違和感もなく、理解できたのではないだろうか…

Home > Archives > 2012-05

 

このページのTOPに戻る