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2018-01

壬申の乱

天智天皇が病に倒れて
その病床に大海人皇子(おおあまのみこ)が呼ばれた
自分の命が残り少ないと悟った天智天皇が皇位を継いでほしいと言われた

本当は天智天皇はわが子である大友皇子(おおとものみこ)に皇位を継いでほしいと思っていることを、大海人皇子は察して
出家して吉野に去ることを告げたのだった

天智天皇が崩御すると
大友皇子は、吉野に去っていった実力者である
叔父の大海人皇子を排除しなければ
近江政権は安泰ではないと考えて動き出した

身に危険が迫った大海人皇子は臣下を自分の領地がある美濃に送り
そこで兵を集めるように命令し
近江から東国へ入る玄関口である不破道(ふわのみち)を塞ぐように命じた

吉野にいては危険なので密かに脱出し東国に旅立った

吉野を脱出した当初は乗る馬も持たず
妃の菟野皇女(うののひめみこ)(天智天皇の娘でのちの持統天皇)のほか
わずかな家臣を連れての吉野脱出となった

大海人皇子たちは夜を徹して逃げ続け
鈴鹿山脈を越えて伊勢に入った

そして、信頼する人物の子である高市皇子(たけちのみこ)のほか
東海道や中部地方の軍勢も味方についた

大海人皇子は高市皇子を
不破を守るための軍事責任者として重要な任務に就かせ
自らも近くの野上(現在の岐阜県関ケ原町)に宮を設けた

少しずつ大海人皇子を支援する軍勢は増えていき
戦う準備は整いつつあった

大海人皇子は不破を越え、数万人の兵を近江に向かわせ
すでに戦いが始まっていた大和にも大勢の兵を派遣した

近江の大友皇子の軍も大勢の兵で迎え撃ったが
裏切りものが相次ぎ琵琶湖畔の戦いでも連敗続きとなった

瀬田橋(滋賀県大津市)を舞台に決選を迎えたが
この戦いも大海人皇子の軍が勝利することになり

これ以上は戦えないと判断した大友皇子は自害した

この何万人もの兵が衝突した古代史最大の戦を
壬申の乱と呼ぶ

長年、西に大きな顔をされてきた東国の不満が爆発し
結果的に大海人皇子に加勢したことが
この戦いの勝因になったと思われる

白村江の戦い

660年(斉明6年)に唐と新羅の連合軍によって百済が滅ぼされた

斉明天皇のもとには百済で抵抗運動を続けている
鬼室福信(きしつふくしん)から援軍派遣の要請が届き
日本にいる百済の王子である豊璋(ほうしょう)の帰還も求めてきた

斉明天皇は古くから親交のある百済の危機を救うために
自ら兵を引き連れて筑紫の朝倉宮に入った

しかし、いざ軍を百済に送ろうとした矢先に
斉明天皇は病に倒れて崩御してしまう
そのため、兵の百済派遣は一旦中止せざるをえなくなった

斉明天皇からあとのことを任された中大兄皇子は
その翌年に豊璋を百済の王として帰還させて
軍事的支援も継続することにした

だが豊璋と鬼室福信の関係がこじれてしまい
鬼室福信は殺害されてしまった

その内戦の隙をついて
新羅の軍が一気に攻めてきた

663年(天智2年)に中大兄皇子は玄界灘を越えて
大勢の軍を百済に向かわせた

一方、白村江には唐の水軍が船団を構えて陣を敷いた

両軍の激しい戦いの始まりだった

しかし、最新の船と武器を備える唐にとって百済は敵ではなかった
2日間の戦いで日本軍は大敗退してしまい、百済の復興はかなわなかった

勢いに乗った唐が日本に侵略してくると予測される中
国土の防衛のために
中大兄皇子は対馬、壱岐、筑紫に防人とのろし台を置き
九州の大宰府に水城を置いた
亡命してきた百済の人を組織して瀬戸内海沿いに山城も建てた

海から遠い近江に都を移したのも
唐の攻撃を考えてのことだったのだろう

斉明天皇が崩御してから7年後に
中大兄皇子は第38代天智天皇として皇位に就いた

戦いに敗れた衝撃は重く
天智天皇の課題は必然的に富国強兵となる

中央集権化をより強固なものにして
徴兵のために日本で初となる戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)を作成した

法律によって国土を支配する律令体制確立のために動き出した

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