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2016-12

神功皇后の遠征②

神功皇后一行を乗せた船団が出航すると
追い風が吹き始め、船は加速をつけて朝鮮海峡を渡っていく
大小さまざまな魚が集まってきて船を背負って航行を助けた

神功皇后の船団は大波を立てて進み
その波が新羅国に押し寄せたので国土の半分を浸してしまった

神功皇后の勢いに圧倒されて
新羅王は降伏を申し出て
「今後は命令に従い日本のために馬を飼育する臣民となります。さらに毎年貢物を送ります」と言った
神功皇后は百済(くだら)も貢納国と定めた

在地の神や民衆の反乱を抑えるために
神功皇后は新羅王の家の門に
住吉三神の依り代となる杖を突き立てて
日本を守護する神として祀った

それが終わると神功皇后は軍勢を率いて帰国した

神功皇后は仲哀天皇の子供を身ごもっていた
新羅遠征の際に生まれそうになったが
非常時だったので腹に石を巻いて出産時期を遅らせていた

朝鮮半島の遠征で成果をあげて九州に戻った神功皇后は
ようやく品陀和気命(ホムダワケノミコト)を生んだ
神功皇后が出産したことにちなんでその地を宇美(福岡県字宇美町)と呼んでいる

本当に神功皇后が遠征したのかどうなのかについては
疑問も多い

実際に4世紀末から5世紀初頭にかけて
日本が朝鮮半島に軍を派遣したのは事実であるようだ

半島北の高句麗が南下策をとって
新羅と連携して百済を圧迫してきた

日本は百済の要請に応えて出兵し新羅の国内まで攻め入った

この神功皇后の遠征は
この歴史的事件をなぞっているようにも思われる

他の文献によると
400年と404年の戦いで
日本軍は逆に壊滅状態となったようだ
新羅を服属させたわけではなかったようなのだ

その屈辱で神功皇后の遠征の物語を作ったのか…

内容に疑問視する声も多い物語でもある

神功皇后の遠征①

成務天皇が亡くなり直系が絶え
悲劇の英雄である倭健の子である
仲哀天皇(第14代)が即位した

九州の熊曾が反乱を起こし
天皇は反乱を鎮圧するために香椎宮(福岡県)に赴いた
しかし、皇后の息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト)に神が降臨し
海のむこうの金銀財宝に恵まれた国(新羅)を服属させよと託宣した

天皇がこの神の意向を疑うと
怒りに燃えた神は
「そなたが天下を統治すべきではない。黄泉国へいけ」と言った
天皇はその場で命絶えてしまう

神は大臣の建内宿禰(タケシウチノスクネ)に言葉を降ろした
神は皇后の胎内にいる子が世継ぎであると述べて
全ては天照大御神の意思であると告げた

建内宿禰が神託した神の名前を問うと
住吉三神(大阪の住吉神社の祭神)だと言った

さらに建内宿禰に住吉三神は託宣して
天上神や地上界、山や川、海の神をすべてきちんと祀り
自分の神霊を朝鮮半島に出撃する船に乗せて渡航すれば
望みはきっとかなうだろうと語った

住吉三神は伊邪那岐神(イザナキノカミ)
が黄泉国から戻ってミソギをしたことによって生まれた神だった

航海の安全を守る神で
そのため新羅遠征の守護神となった

しかし天皇に神罰を与えたので
朝廷からは畏れ敬われていたようだ

神を降ろして託宣を告げる建内宿禰は
成務天皇(日本書紀では景行天皇から)にはじまり
仁徳天皇まで4代にわたって仕えたと言われている
計算すると建内宿禰は300年間生きたことになる

神功皇后は三好三神の言う通りに
神祀りを尽くし
軍勢や船団を整えて半島へ向かった
日本書紀ではこの時、神功皇后は男装して出撃したと書かれている

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