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2010-01

第四七回 「墓石の原点~その10~」・・(平成22年1月1日)

日本神話が物語るお墓の意味④

 さて、再び「千引石」に話を戻します。
 千引石は今日にいたるまで、日本人のお墓の形状に決定的な「概念」を植えつけた、と考えられます。
 コンセプトや概念という言葉は、便利な割にいまひとつその意味がつかみにくい言葉ではありますが、ふつう「お墓の概念」と言えば、「多くのお墓に共通する(本質的な・基本的な)特徴や考え」となります。とにかく「日本人のお墓の形状に共通するもの」は、千引石によってその基本的な考え方がほぼ決まった、と思われます。
 それは先に述べた「生きているときの痕跡をお墓の形状に持ち込まない・残さない」ということです。

 千引石は自然石ですが、自然そのままの姿の石(岩・磐など)は、神話の祖先たちが「石の霊力」発見した最初のものできた。
 そして「事戸を度し」た瞬間から死者は生きた人間と異なる他界(あの世)に属する者となります。つまり「千引石」の「道反」や「塞ぎる」の霊力によって、この世とは厳格に異なった世界に所属する者となった以上、そこは生きた人間は入り込む余地がありません。
 このような意味の「シンボル」であれば当然、日本人のお墓の形状は、抽象的な一定の共通性を持って作られるようになるはずです。しかしだからといってお墓の形状がいつの時代にも同じ、というものではありません。お墓の形状は時代によって意味や価値が異なるに伴って、流行り廃れがあり、さまざまに変化します。
 つまり、千引石は「お墓の形状」を決定付けたのではなく、「お墓の形状の考え方」を日本人に方向付けたのです。 

 ところが江戸時代末期から、墓石の中心となる棹石正面の上段に「家紋」を入れるようになりました。本来ここには本尊仏のシンボル「種子(梵字・古代サンスクリット文字)」を入れます。それが武家の家紋や商家の商標を墓石に堂々と入れるようになったのです。
 少し大げさに表現すると、これは日本のお墓文化史の一大事件で、大変な変化です。家紋というこの世の「生」そのものをお墓の世界まで持ち込むようになったからです。
 「戒名(法名)」は生前の本名がほとんど残りません。そして「俗名」は棹石の側面に刻字されます。これは西洋の本名(姓と名)の間に入れる「クリスチャンネーム(洗礼名)」と較べて大きな違いがあります。
 「戒名」までは、イザナミ神話以来の伝統が続いていた、とみなされますが、家紋を墓石のもっとも大切な位置に入れるとなると、問題の本質が根底からひっくり返ってしまいます。つまり、千引石以来のお墓の形状「シンボル」の意味が、まったく違う次元へ移った(転換した)のです。
 もっと大げさに言うなら、明治維新のとき、アジア諸国の中で唯一西洋化に成功した日本の、国民の文化意識の変化が江戸時代のこのころすでに起きており、その兆候はお墓(墓石の家紋)に認められる、と言うこともできます
。 それくらい大きな文化意識の変化が江戸時代にあったのです。こうした時代に本居宣長が日本固有の文化を『古事記』の中に求めてその注釈書『古事記伝』を著したり、『源氏物語』によって「もののあわれ」を掘り起こそうとしたのも必然のことでした。決して偶然ではなかったのです。

  さて現代には、イザナミ神話・千引石の「お墓の形状コンセプト」は生きているのでしょうか。
 もちろん圧倒的な強さで生きています。それは墓地でいわゆる「ニューデザイン墓」と従来型のお墓の比率を見較べるとわかります。
 しかし確実に大きな変化もあります。ぴかぴかに磨かれた墓石の登場です。単に人工ダイヤモンドの開発によって墓石加工技術が大きく変化した、というだけでなく、これは意識の変化であって「石の自然性」を全面的に拒否しようとした形状です。現代的な効率性(墓石の手入れが簡単で、増産効率を高めること)から生み出された「文化」的なシンボルを意味しています。

 お墓とは「自然と文化のせめぎあいの中で、ちょうどその中間に位置するもの」と前に述べましたが、江戸後期から現代までのお墓は、明らかに「文化」のほうへ大きく引き寄せられた位置にある、と言えます。

 それは、千引石が自然石なのは加工技術の問題ではなく、「自然」性を強く残す「死」の問題に起因しています。
 日本人はアジア(特に中国・朝鮮半島)に普及した「自然型」の大地をシンボルとする「土饅頭型」のお墓でなく、「自然石型」のお墓、つまり「石」をお墓のシンボルとして選択したときに、お墓の形状コンセプトが確立されていました。
 ところが現代の日本人は素材の「石」は残しましたが、江戸時代の変化をそのまま受け継いで、「文化型」の墓石に変化させています。

 そのことは現代の墓地に五六分もいるとすぐわかります。
 つまり異様にぴかぴかに磨かれた墓石が林立する墓地では、なぜか「落ち着かない」、「見飽きる」、「人を拒否する」のです。
 なぜでしょうか。
 それは、現代の墓地に「自然」がないからです。どんなに花や樹木を植えて手入れが行き届いていても、いや、そうであればあるほど人工的(文化的)なニオイがして、人の心を落ち着かせない(拒否されてしまう)のです。
 千引石が「墓石の形状の原点だ」というのは、「自然性」を強く残すことにその「本質」があったのです。

 そこで「自然性のある墓石」とは、自然の石が本来持っている五つの点を表現しているお墓に尽きるのではないでしょうか。それは下記の五点です。

 ①シンプルであること
 ②力強さがあること
 ③おおらかであること
 ④見飽きないこと
 ⑤抽象的で生前の痕跡を残さないこと

 これが日本人のお墓の形状コンセプトの原点となった「千引石」の意味であり、本質であると思います。
 それは「自然を拒否する文化」ではなく「自然を生かす文化」でもある、ともいえます。
 自然の持つ「すばらしさ」を最大限に生かすことによって、人々の心に「畏敬」と「安らぎ」を与え、「自然に溶け込む」「深い味わい」のある墓石になるのではないでしょうか。
 それは神話の祖先から営々と受け継がれた「石工職人」のみに許された、自然の石に手を加える「匠の技術」の結晶であり、日本人のお墓文化です。
 しかし私は、墓石の「優劣」や「良し悪し」を言ってるのではありません。日本人の墓石の形状の原点とその本質が何であったのか、を確認しているだけです。
 ただ神話依頼の祖先の「石大工」たちはきっと、自然の素材の石に、機械の精密さではなく、自然を生かす方法で「手を加え」ながら墓石を作ってきたのだろうと思われるのです。
 それが伝統的な日本の「石大工」や「石工」といわれる「職人のいのち」であり「職人のたましい」だったのではないでしょうか。
 これは、異業種から突然、墓石業界に参入した「経営者」や「営業マン集団」には絶対に真似ができないもので、石工職人の「宝物」であることは紛れもない事実です。
 この「宝物」はまた、他の国では真似のできない日本の自然風土と精神風土が培ってきたもの、と私は確信しています。
 そして、ぜひこれだけは日本人が残しておかねば、やがて「日本のお墓文化死んでしまう」と痛切に危機感を抱いています。

 神話は、こうしたさまざまな「叡智」を現代の私たちに伝え、メッセージしている日本人の「宝物」なのです。

第四六回 「墓石の原点~その9~」・・(平成21年12月1日)

日本神話が物語るお墓の意味③
 (6)日本最初の墓石
 千引岩はイザナミの埋葬地の入口に置かれた巨石で、紛れもなく墓石です。それも日本で最初に文化的な意味づけをなされたシンボルとしての「墓石」です。
 千引岩(=墓石)は次のように意味づけされます。

① 霊力を持った墓石
 この石には死者が地上に出ること、生者が地下の死者を暴くことを塞ぎり、タブーを犯すものを追い返す霊力があります。
 汚いからではなく、死者が大地に帰り、土と同化して新たなものを再生する神聖な営み(自然の理)を保障するためです。それは「二次葬」「複葬」「再葬」といわれる埋葬法をあわせて考えるとよく理解できます。
 イザナギの「きたない」という意識は、むしろタブーを犯した「罪と罰」であることを思い起こすべきです。

② この世とあの世の境界石
 「あの世」を身近なところと感じる日本人にとって、あの世との境界を示すシンボルは大変重要です。
 それは単なる「目印」としての意味だけではありません。のちに「鳥居」「道祖神」「塞の神」「六地蔵」などに発展する原型ですが、あの世を含む異界との境界にあって、異界からの災厄を防ぎ、異界へ行く人の安全を守る「霊力」を持つものです。

③ 死者と会話できる石」
 イザナミとイザナギが千引石をはさんで「事戸を度す」シーンには大変重要な意味があります。
 神話には「其の石を中に置きて各対ひ立ちて事戸を度す」とあります。事戸(決別)の内容はさておき、これは今日、私たちが「墓石」を中に置いてご先祖様に話しかけているシーンそのものです。
 神話時代には墓石(またはそれに相当するもの)と向かい合って、死者と会話したのが日本人です。
 墓石そのものが、この世の人にとって「死者」となり、死者にとって「この世の人」となる役割(霊力)を持っていたからです。
 時代が下るとこれが「石に宿る死者の霊」という意味の「依り代」としての墓石となります。一方「位牌」は屋内での死者の霊の「依り代」の役割を果たしています。

 お墓参りとは、「死者をお祀り(後代の供養)」して、その後で、「死者と出会って、心ゆくまで会話を交わす」ことですが、その原点となるのがこの神話です。
 こうしたことはみな、墓石には、生者と向かい合って会話するだけの霊力が備わっているもの、と理解することができます。
 だから花を供え、香を焚き、水をあげ、手を合わせて祈りをささげる墓前祭祀の習慣(儀礼=シンボル)ができたのだ、と思われます。 千引岩を原点とする日本人の「墓石」は、単なる「墓標」などではありません。

④ 墓石の形状コンセプト
 日本のお墓とヨーロッパやアメリカなどのキリスト教の国々のお墓とは明らかな違いがあります。
 もっとも違う点は、日本の墓は生前の痕跡をほとんど持ち込まない、あるいは残さないということです。
 たとえば、日本の墓地では、欧米のお墓のように顔写真や肖像など生前の姿や遺影がほとんどありません。もちろんこれは宗教(文化)の違いからきています。
 キリスト教では、死ぬことがこの世の終わりではなく、「最後の審判の日」までがこの世の延長としてあるからです。キリスト教では「最後の審判の日」まで、お墓の中でもこの世の「生」が続いているからです。
 ところが日本神話では「事戸を度」した時にこの世との決別が確定し、死者はこの世とはまったく別の世界(あの世・他界)に属しますから、この世の面影をいつまでも引きずらず、むしろ抽象的な形状の墓石を「シンボル」とします。
 日本に仏教が伝来してから建てられるようになった「仏塔」形式の墓石がその典型です。
 いうまでもなく仏塔は、お釈迦様のお墓(ストゥーパ・卒塔婆)を素型にして発展したお墓ですが、理想的な仏教の死後の世界(浄土)へすでに死者が往って生まれかわっていること(極楽往生したこと)、また「ホトケ様」になっていること(成仏したこと)をシンボル化した墓石です。
 キリスト教でも「十字架」を墓石にしますが、そこに生前の写真などを置いて、まだ最後の審判を受けていない故人の生前の姿を残すところが、日本のお墓との一番の違いです。
 こうした日本人と欧米人のお墓に対する本質的な違いは、丸山先生の「執拗低音(バッソ・オスティナート)」のように、それぞれの国の人々の意識(文化)の底(無意識)に、時代を超えて常に流れています。

第四五回 「墓石の原点~その8~」・・(平成21年11月1日)

日本神話が物語るお墓の意味②
先月からの続きです。
(5)お墓とは「祀り」と「豊穣」を交換する場所
 これまで触れなかったことがあります。
 お墓はシンボルですから、最初に述べたようにシンボルには「交換」という特徴があるということです。
 人間の最も基本的で重要な交換は言葉(シンボル)の交換によってコミュニケーションが成り立つ点ですが、私たちは、お墓でも色々な「交換」をしています。
 古代の日本人、とりわけ神話を生み出した祖先たちも、お墓で「鄭重な埋葬とお祀り」と「豊かなもの(豊穣)」を交換しています。 言葉やお金の例は分りやすいのですが、シンボルの交換には、交換を行なう集団(社会)がシンボルの意味や価値を共通(共有)して認めていなければ成り立ちません。
 同様にお墓での交換には、神話の祖先たちが「死の穢れは豊かなものを生み出す偉大な穢れである」という「叡智」を共有していることが大前提になります。さて祖先たちはそれを知っていたのでしょうか。もちろん、よく知っていました。
 だからこそ無意識のうちに、「偉大な穢れ」を生み出す「マイナス二重構造」を神話の中に織り込んでいたのです。それがレヴィ=ストロースやユングが指摘した神話の偉大さ(隠れた宝物とメッセージ)です。
 祖先たちは、ことさら「偉大な穢れ」と、それを生み出す「マイナス二重構造」を解説しなくても、それは当然の常識として共有された「叡智」だったのです。
 祖先たちの目的はむしろ、これを使って神話を物語ることにありました。
 ただ、後代の子孫にはその常識が、長い年月とともに通用しなくなっていただけのことです。しかし「時代とともにシンボルの意味や価値の内容が変わる」というのは、大変重要なことです。それはお墓での交換においてもはっきりしています。
 そして大事なのは、「どんなに時代が変わっても神話の構造は変化しない」という点です。
 丸山教授が日本政治思想史の方法論として注目された日本神話の「うむ」「なる」の構造が、時代を超えて(歴史性を持って)、日本人の底流にいつも繰り返し流れている、といわれたことに該当します。クラシック音楽を徹底して研究されていた丸山教授は、これをバッハ作曲の『シャコンヌ』の音楽形式にちなんで「執拗低音(「バッソ・オスティナート」)=高音部のメロディーはさまざまに変化しても、低音部は執拗に同じメロディーを反復する形式)」といわれました。
 また、レヴィ=ストロースが「構造人間学」で、南北アメリカ大陸の二千に及ぶ神話を読み解いたのも、神話の構造はどんな時代にも通用する心理だったからです。それが「実存主義」を超えた現代の「構造主義」という哲学です。
 要は、お墓は日本人の文化が生み出したシンボルである以上、お墓にはその時代その時代に共有された意味や価値があり、それがさまざまに交換されたのであれば、その意味や価値の内容をひとつひとつ読み解けばよいのです。
 墓前にお花を供えたり、お香を焚いて合掌するのは、実は無意識のうちにさまざまなものと交換しているのですが、その意味をそれぞれの時代の文化に照らして、正しく読み解くことが、お墓を歴史的に理解する、ということです。

 神話の祖先には「死体は鄭重に埋葬してお祀りするだけの価値があった」からそうしたのですが、そうすることで「人々の生活に役立つ豊かなものをもたらしてくれる」からでした。それが祖先たちの、お墓での交換です。
 しかしそれは、むしろ「死体が豊かなものと交換できる文化・社会が出来ていたから《価値》があった」わけです。
 もし神話時代に、死体を交換する文化・社会が出来ていなかったら、死体は無価値です。何の価値もない死体なら、祖先たちも子孫たちも進んで野山に捨てたに違いありません。
 だからお墓を理解するとは、日本人の文化を理解することに他ならないのです。つまり「お墓はシンボル」なのです。

 お墓での高官はやがて「ご先祖様をお祀り(先祖供養)する子孫に、ご先祖様は必ず恩恵をもたらしてくれる」「ご先祖様にお願いすると、なんでも願い事をかなえてくれる」など、その意味が膨らんでくることになります。
 その原型の千引石では「支社」と「豊穣」の交換でした。

第四四回 「墓石の原点~その7~」・・(平成21年10月1日)

日本神話が物語るお墓の意味①
(1)ふたつのあの世
 『古事記』(以下「神話」と表現する)には、死者が逝く(行く)あの世が二つあります。
 ひとつは、天若日子が亡くなって行った天界の「高天原」です。高天原は、もともと天若日子がいたところで、この世(豊葦原中津国)へ遣わされ、亡くなってから帰っていった国ですが、この一段はむしろ、古代の葬儀を知る上で大切な説話です。
 もう一つは、亡くなったイザナミが行き、その後イザナギが訪ねた「黄泉の国」です。イザナミも、高天原から遣わされた女神ですが、自らが生んだこの世(豊葦原中津国)の地下にある黄泉の国に、イザナギによって埋葬され祀られました。
 文献上、お墓の原点を知るには、この話が起点となっており、最も重要な部分です。
(2)死者の霊魂と亡骸
 神話には、まだはっきりと死者の「霊魂」の存在が意識されてはいませんが、「ない」とも断言できません。黄泉の国でイザナミとイザナギが出会った時のイザナミは、おそらく「霊魂」と見るのが自然です。
 しかしその後の神話には、死者が活躍する場面はありませんので、神話ができたころにはまだ、はっきりとした霊魂観はなかったようです。明確に死者の霊が意識されるのは、もっと後の時代です。
 黄泉の国では、亡骸とその穢れが重要な問題となっています。
(3)豊かなものをもたらす「死の穢れ」
 神話を構造から読み解くことで、死・瀕死・死の穢れは人々に豊かなもの(豊饒な実り・工具・技術など)をもたらす「偉大な穢れ」であることがわかりました。これは「日本人のお墓」を考える上で大変重要です。
 これまでにように、神話のイザナミの死を「きたない・こわい・たたる」と捉えるか、それとも豊かなものをもたらす(再生する)価値ある「偉大な穢れ」と見るかでは、天と地ほどの違いが出てきます。
 従来謂われてきた説とは正反対の結果ですが、神話や考古学の発見などから総合して判断すると、「偉大な穢れ」説は十分な妥当性があります。
 神話では死の穢れを「偉大な穢れ」と見るので、当然、埋葬の仕方やお墓の意味も、従来の説と違ってきます。
(4)「葬り」とは「鄭重にお祀りして埋葬する」こと
 従来の、「死者は汚くて怖いもの」という考え方を葬儀の起点にすると、「日本人は古代から死体を野山に遺棄した」ことになります。
 前にも述べたとおり、この説の根拠としては、
 ①貝塚での遺体の発見や抱石葬
 ②神話に見られる黄泉の国の穢れ
 ③万葉集の散骨の挽歌や延喜式の触穢
 ④中世の諸文献や絵草子類
 ⑤両墓制での捨て墓
 ⑥民俗学の葬送習俗語彙
などがあげられてきました。
 しかし①と②は、これまで見てきた通り該当しません。
 ③は、東京大学の堀一郎教授が指摘されたように、『万葉集』の中の挽歌には、確かに散骨とみなされる歌もありますが、同時に忘れてはならないのが、「鄭重に埋葬してお祀りした」歌もあるということです。『万葉集』の挽歌は、ともすると散骨や遺棄した亡骸の典拠とみなされますが、それでは片手落ちの引用となります。
 ④は、ほとんど戦乱・天災などの異常時での出来事を記録したものであったり、ことさら死の無情さを誇張した絵柄であるため、日常での民衆生活(埋葬習慣)を正確に描写しているとは断定できない点が、あまり考慮されないままに使われています。
 ⑤は、室町時代以降物もであること、また地域も関東近畿が中心で、全国的な習俗ではありません。
 ⑥は、これが古代からの習俗かどうか、時代考証がほとんどされていないので不明です。
 以上の理由からこうした考え方を前提にはしませんでした。しかし、だからといって、これらすべてを否定するわけではありません。
 本居宣長の『古事記伝』や法政大学の益田勝美教授の解釈、それに三内丸山遺跡・吉野が里遺跡の列状墓群、あるいは『魏志』倭人伝の卑弥呼の葬送と埋葬の記述などから判断して、古代の日本人は「死者を丁重に埋葬してお祀りした」と考えて、その考えに基づいて書き連ねてきました。

第四三回 「墓石の原点~その6~」・・(平成21年9月1日)

(1)ふたつのあの世
 『古事記』(以下「神話」と表現する)には、死者が逝く(行く)あの世が二つあります。
 ひとつは、天若日子が亡くなって行った天界の「高天原」です。高天原は、もともと天若日子がいたところで、この世(豊葦原中津国)へ遣わされ、亡くなってから帰っていった国ですが、この一段はむしろ、古代の葬儀を知る上で大切な説話です。
 もう一つは、亡くなったイザナミが行き、その後イザナギが訪ねた「黄泉の国」です。イザナミも、高天原から遣わされた女神ですが、自らが生んだこの世(豊葦原中津国)の地下にある黄泉の国に、イザナギによって埋葬され祀られました。
 文献上、お墓の原点を知るには、この話が起点となっており、最も重要な部分です。
(2)死者の霊魂と亡骸
 神話には、まだはっきりと死者の「霊魂」の存在が意識されてはいませんが、「ない」とも断言できません。黄泉の国でイザナミとイザナギが出会った時のイザナミは、おそらく「霊魂」と見るのが自然です。
 しかしその後の神話には、死者が活躍する場面はありませんので、神話ができたころにはまだ、はっきりとした霊魂観はなかったようです。明確に死者の霊が意識されるのは、もっと後の時代です。
 黄泉の国では、亡骸とその穢れが重要な問題となっています。
(3)豊かなものをもたらす「死の穢れ」
 神話を構造から読み解くことで、死・瀕死・死の穢れは人々に豊かなもの(豊饒な実り・工具・技術など)をもたらす「偉大な穢れ」であることがわかりました。これは「日本人のお墓」を考える上で大変重要です。
 これまでにように、神話のイザナミの死を「きたない・こわい・たたる」と捉えるか、それとも豊かなものをもたらす(再生する)価値ある「偉大な穢れ」と見るかでは、天と地ほどの違いが出てきます。
 従来謂われてきた説とは正反対の結果ですが、神話や考古学の発見などから総合して判断すると、「偉大な穢れ」説は十分な妥当性があります。
 神話では死の穢れを「偉大な穢れ」と見るので、当然、埋葬の仕方やお墓の意味も、従来の説と違ってきます。
(4)「葬り」とは「鄭重にお祀りして埋葬する」こと
 従来の、「死者は汚くて怖いもの」という考え方を葬儀の起点にすると、「日本人は古代から死体を野山に遺棄した」ことになります。
 前にも述べたとおり、この説の根拠としては、
 ①貝塚での遺体の発見や抱石葬
 ②神話に見られる黄泉の国の穢れ
 ③万葉集の散骨の挽歌や延喜式の触穢
 ④中世の諸文献や絵草子類
 ⑤両墓制での捨て墓
 ⑥民俗学の葬送習俗語彙
などがあげられてきました。
 しかし①と②は、これまで見てきた通り該当しません。
 ③は、東京大学の堀一郎教授が指摘されたように、『万葉集』の中の挽歌には、確かに散骨とみなされる歌もありますが、同時に忘れてはならないのが、「鄭重に埋葬してお祀りした」歌もあるということです。『万葉集』の挽歌は、ともすると散骨や遺棄した亡骸の典拠とみなされますが、それでは片手落ちの引用となります。
 ④は、ほとんど戦乱・天災などの異常時での出来事を記録したものであったり、ことさら死の無情さを誇張した絵柄であるため、日常での民衆生活(埋葬習慣)を正確に描写しているとは断定できない点が、あまり考慮されないままに使われています。
 ⑤は、室町時代以降物もであること、また地域も関東近畿が中心で、全国的な習俗ではありません。
 ⑥は、これが古代からの習俗かどうか、時代考証がほとんどされていないので不明です。
 以上の理由からこうした考え方を前提にはしませんでした。しかし、だからといって、これらすべてを否定するわけではありません。
 本居宣長の『古事記伝』や法政大学の益田勝美教授の解釈、それに三内丸山遺跡・吉野が里遺跡の列状墓群、あるいは『魏志』倭人伝の卑弥呼の葬送と埋葬の記述などから判断して、古代の日本人は「死者を丁重に埋葬してお祀りした」と考えて、その考えに基づいて書き連ねてきました。

第四二回 「墓石の原点~その5~」・・(平成21年8月1日)

 ところで、ここで未だ手つかずの問題があります。
 イザナミのおどろおどろしくけがれた死による腐敗の姿と、イザナギを黄泉の国へと引き戻そうとした、イザナミの恐ろしい怨念について、どう理解するべきか?ということです。

 この問題については、あまり突っ込んだ解釈はないように思われますが、女神イザナミの言葉と、その後の男神イザナギの行動に、これを解くカギがあります。

 イザナミの「決して私を見ないで!(我をな視たまひそ)」という強い禁止と、それを破って火を灯し、イザナミの腐敗した姿を見たイザナギの行為です。
 「タブー(禁忌)」を破ったイザナギは、当然、イザナミの恐ろしい「報い」を受けることになります。

 この話自体は、どこにでもあるお伽話のようで、何の変哲もない単純な内容に見えます。しかしそこには大きな意味が隠されています。ここでも「イザナミ=自然」「イザナギ=文化」と置き換えて読みなおすと、その意味が見えてくると思われます。

 自然界では、死者が大地に還って(自然回帰して)土に同化するには、腐敗化という、豊かなものをもたらす「偉大なマイナス」となるための神聖なプロセスが不可避となります。それが自然の理(大原則)です。神聖なる腐敗化は、自然界の中で静かに、そして確実に進行しています。これを妨げることは絶対のタブーです。このタブーを犯すと、自然は「豊かな稔り(豊饒)」もたらさなくなり、結局自然界のサイクル(理)が破壊されるからです。
 ところがイザナギという「文化」は、この再生に至るプロセスの進行を待ち切れなかったのか、あるいは神聖な自然回帰の理を「うっかり」失念したのか、この絶対のタブーを犯してしまいました。

 この状況は、現代社会に通じると見る向きもあるかもしれません。が、ここでは本筋から外れますので割愛します。

 「うっかり忘れた」と書いたのは、イザナギはイザナミの亡骸を鄭重にお祀りして埋葬している(葬ぶりまつりき)をおこなっているからです。イザナミの死が、自然のサイクルによってやがて豊かな稔りがもたらすことを、イザナギは知っており、それ故にイザナギという文化によってシンボル化された「埋葬」という儀式をおこなっているはずだからです。
 イザナギは、この自然のサイクルを知っていながら、あまりにも長い間待たされたため、つい「うっかり」タブーを忘れてしまったのではないか?と解釈できると思われます。

 神話の時代よりすでに、人は大地の中に入って、あるいは墓を暴いてまで死者の変わり果てた姿を見るという行為は、絶対におこなってはならぬタブーであった、ということがわかります。
 これは何も人間に限りません。犬やオオカミなどの動物による「墓暴き」もあります。それを防ぐために遺体の上に大きな石を置いて埋葬したことは、考古学でも事例が報告されています(「抱石葬」など)。しかしいまは、神話の祖先たちがその行為を固く戒め、子孫に伝えるため、ことさらにきたない「けがれ」と、「恐ろしい」ストーリーを創った、と説明しておきます。
 つまりこれは「墓暴き」に対する「罪と罰」の物語なのです。

 この結果イザナギ(文化)は、鄭重に祀って埋葬した上に、さらに千引石という二重のシンボルを造らざるを得なかったのです。なぜなら、ひとつは自らの過ちに対する償いのため、そして自らが犯した過ちを、子孫が繰り返さないため、そしてなによりも自然の秩序を回復するためだった、と考えられます。

第四一回 「墓石の原点~その4~」・・(平成21年7月1日)

 「黄泉戸」の「戸」は、この世とあの世の境界にある「石の戸(石戸)」で、これが後に民俗の「塞の神」や「道祖神」、あるいは仏教の「六地蔵」へと発展する原型です。

 ここでいう「石戸」とは、『万葉集』巻三「河内王を豊前国鏡山に葬る時、手持女王の作る歌三首」の「418 豊国の鏡山の石戸立て隠りにけらし待てど来まさず」また「419 石戸破る手力もがも手弱き女にしあれば術の知らなくに」とあるように、彼此の境界を示しています。そしてあの世とこの世が比較的簡単な「石戸」で仕切られている意味も見逃すことができません。
 私たちの祖先は、仏教がいうように「西方極楽浄土は十一万億土」の想像を絶するような宇宙の果てにあるのではなく、ごく身近に「あの世への出入り口」を感じていたのです。
 このことは柳田國男の『先祖の話』などにも多く取り上げられているのですが、その起源が神話にある「塞えぎる霊力を持った黄泉戸としての千引岩」と言ってよいでしょう。

 では、なぜイザナミを「道反」したり「塞」ぎらなくてはならなかったのでしょうか。
 これまでの答えなら「死の穢れ」と「イザナミの恐ろしい魔力(死者のたたり)」があるから、ということになるはずです。
 なるほど、神話のストーリーはそのようになっています。
 しかしここでもイザナミを「自然」、イザナギを「文化」に置き換えて読むと、隠れたもう一つの意味が浮かび上がってきます。

 イザナギ(文化)は、イザナミの死体の腐敗によって「死を確認」しますが、イザナミ(自然)もまた「黄泉の国の食べ物を食べたので、もう戻れません」と言って、自らの「死を確認」します。千引き岩を挟んで「事戸を度す」背景には、こうした二神の死の確認があって、はじめてその隠された意味を理解することができます。
 ここで重要な意味を持つのが、「死の穢れは豊かなものを生み出す偉大なマイナス」という叡智です。
 この叡智を、自然と文化の二つの側面から受け止めるとき、イザナギとイザナミのとった言動の「本当の意味」が理解されます。

 イザナミは死の世界で新たな再生(豊かなものを生み出す作用)の霊力を得た証として「黄泉津大神」となり、イザナギはこの世で文化の秩序を維持するための「生と死」をコントロールします。
 それがイザナミの「私は日に千人を殺す」と「それなら私は日に千五百人を産ませるまでだ」という、千引き岩挟んだ二神の会話です。
 そしてイザナギは「死の確認」を文化的なシンボルとするため、千引岩という墓石を作り、イザナミを「カクシマツル」ことで、イザナミの死とその腐敗を文化の世界でケリをつけています。
 従ってイザナミ(自然)もイザナギ(文化)も死の確認をしてそれぞれの世界に生きる決意をした以上は、今度は千引岩を境界に、千引岩の霊力によって二神がそれぞれの世界へ「道反」され、相手の世界へ踏み込むことを「塞えぎられる」のは当然のことです。
 それが「道反」と「塞ぎる」本来の意味だったのです。

第四十回 「墓石の原点~その3~」・・(平成21年6月1日)

 イザナギが黄泉の国の入口を千引岩でふざぎ、イザナミと向き合って別れを告げたこと(事戸を度す)、これが墓石の原点だと思われますが、この千引岩について、もう少し掘り下げてみることにします。

 古来、日本のお墓(埋葬施設)には、必ずしも石が使われていたわけではありません。土に穴を掘っただけで、時には甕棺を利用したり、その上に盛り土や木を植えています。もちろん東北北海道に見られる、ストーンサークルのように石が使われている場合もあります。

 しかし千引岩は、日本の墓石に初めて文化的な意味づけをした点が重要なのです。千引岩を「道反の大神」「塞ります黄泉戸大神」と名づけたことに、そのことが見て取れます。

 「道反」とは「女神イザナミがこの世に出てくるのを遮って、もと来た黄泉の国へ追い返す」ことです。
また「塞ります黄泉戸大神」の「黄泉戸」とは、『日本書紀』に「泉門(よみと)」とあるようにあの世の出入り口のことで、「あの世の門の出入りを塞いで開かない」ことです。
 大切なのは千引岩にこうした不思議な力があるということです。千引岩が「大神」で「大いなる霊力があるもの」とする点です。つまり「石の霊力」「墓石の霊力」を、神話ははっきりと言明しているのです。
 なぜこのことが重要なのか、と言うと、多くの民族学者が使っている「墓標」という言葉と比較してみるとよくわかります。「墓標」とは「墓の目印」のことで、その言葉には「石の霊力」は意識されていません。単に「ここに死体が埋まっているという目印」にすぎません。しかし、神話の時代、つまり日本のお墓の原点ではそうではなかったのです。
 祖先たちは千引岩という墓石に「大いなる石の力」をはっきりと見て取っていますし、それを神話の中に織り込んで、長く子孫たちにメッセージを送り続けていたのです。
 何度も言いますが、千引岩は不思議な霊力のある大神で、日本の墓石はここに出発点があります。

 「塞ります黄泉戸」について本居宣長は『古事記伝』四之巻で「さやりますよみと」と訓むべきだと指摘しています。その理由については以下のように書いています。

 「さて上に引塞とある塞は、佐閇(さえ)と訓み……此の塞坐は、佐夜理坐(さやります)と訓べし。其故は、まづ始メなるは、是を以て塞たまふ伊邪那岐ノ神に就て云なれば、佐閇と訓べく、後の二ツは、其ノ所塞石に就て云なれば、佐波理(さはり)とか佐夜理(さやり)とか云べき格なり。同ジ言も、人の為と自ら然るとの差あり」と。

 イザナギが千引岩を引いてきて黄泉の出入り口を塞ぐ時は、「イザナギが塞ぎった(さえぎった)」と訓み、千引岩の場合は「塞ぎっている千引岩」と差をつけて訓むと言っています。
 こうした区別をつけた宣長は、大変素晴らしいところに着眼しています。
 千引岩は黄泉の国の出入り口で「塞ぎったままの状態を保ち続ける霊力を持った石」「不思議な力がある開かずの扉」「封印されたままの不思議な力のある石の扉」という意味です。
 そこに「道反」の力が加わりますから千引岩とは「誰にも開けられない、開けようとすると追い返す霊力を持った石」という意味になります。それが「墓石」の原義となります。

 イザナギという「文化」の象徴が千引岩を引いてきたことや、千引岩の訓ませ方は、千引岩に文化的な意味づけがなされた、つまり「シンボル化」がなされたという意味です。「墓石のシンボル化」については、さすがに宣長も言及しておりませんが、十分に意識していたであろうと思われます。
 いずれにしても、これが「墓石がシンボルである」ことに言及した最初の文献であると言ってよいと思います。

第三九回 「墓石の原点~その2~」・・(平成21年5月1日)

 葬式と位牌はきわめて精神的・観念的な色合いが強い文化的なものです。
 しかし「お墓」は、文化の度合いが葬式や位牌より少なく、「どこまでも自然界のものであろうとする文化的なもの」といえます。
 お墓は文化的な思考がつくりだしたシンボルですが、反面、死者を「大地へ帰す所」として自然が強く残っていますし、死者そのものは常に自然に属し、イザナミの「ものの次元」であろうとします。イザナミからイザナギへ「事戸を度」した隠れた意味とは、イザナミが「自然のままに死を受け入れ、死の世界で新たに生きる」決意だったからです。

 したがって、はじめから文化として考え出された「葬式」や「位牌」にこうした性向がないのは当然です。

 ここで「自然」と「文化」について、基本的な違いを見ておきます。
 死・死体・死体の腐乱・骨などはいずれも、文化的にどんな意味付けをしても、最後まで「自然」そのものです。そこが位牌や葬儀とは違います。
 「自然」とは、地震・台風・雷などの自然現象を見てわかるとおり、人がどんなに制御しようとしても、コントロールできないもの、また予測不可能なものです。もし予測しようとすれば巨額の経費がかかります。
 一方「文化」とは、「人間の脳」が考え出したもので、法律・習慣・時間・学問・経済・情報などのように、どこまでもこれらを、人は際限なく秩序だてて、合理的にコントロールしようとします。
 たとえば、犬の放し飼い・立ち小便・会議中の居眠りやおしゃべり・痴漢行為などの「自然のままの行為」に対して「文化」は、あらゆる規制を講じて何とかこれをコントロールしようとします。もしそれができない時は、文化の世界から取り除きにかかります。
 つまり「自然」と「文化」は二律背反の対立する概念です。

 とすると人間の「死体」とは、実に「やっかいなシロモノ」ということになります。
 文化的にどこかでケリをつけても、何万年か後に突然「骨」として自然の姿のままあらわれるので、その都度、
 文化的な決着をつけなくてはなりません。
 そこで人はあらかじめ、死体や骨に対して「永代供養」という文化的決着をはかり、永続性のある「墓地」に埋葬する必要が生じます。つまり死体に対して人は一種の予防「危機管理」をしているのです。
 しかしそれでもなお、埋葬された死体や骨は永久に「自然のまま」でありつづけるので「やっかい」なのです。

 お墓は「自然(ものの次元)」と「文化(たまの次元)」がせめぎ合う、ちょうど中間あたりに位置する「シンボル」として、「文化」の側から二つの次元に「折り合いをつけたもの」ともいえます。
 これが神話の「事戸を度す」という言葉の背景に隠された「日本人のお墓」の意味です。

 ちなみに、以下は筆者の「こじつけ」ですが、イザナギの側に限っていえば、「事戸」は「異なる戸」の「異戸(異界・他界・あの世への入口の戸)」だったのかもしれない、と思っています。それなら「事戸を度す」は「この世からあの世への戸を開けて送り出す」ことになります。
 また、『日本書紀』の「絶妻」は「絶際」ではないか、とも思います。「際」とは「境界」のことで、「この世」と「あの世」の瀬戸際を意味し、「絶際」とは「ここまでがこの世、その先はあの世で、断絶している」ことを「宣言」した、とも考えられます。
 しかし古代の用事例を詳しく調べたわけではないので、確信はありません。あくまでも「こじつけ」です。

第三八回 「墓石の原点~その1~」・・(平成21年4月1日)

 プロローグとして、記紀研究の先駆的存在である本居宣長について、少しばかり触れることとします。 本居宣長については、敢てここで紹介する必要はないでしょうが、彼の著作の中に、日本人のお墓を考える際に注目するべき記述があります。

①「古へより今に至るまで、世の中の善悪き、移りもて来しさまなどを験むるに、みな神代の趣に違へることなし、今ゆくさきよろ万代までも、思ひはかりつべし。」(『古事記伝』三之巻)

②「凡て世間のありさま、代々時々に、吉善事凶悪事つぎつぎに移りもてゆく理は大きなるも小さきも、悉に此の神代の始の趣に依るものなり」(『古事記伝』七之巻)

 丸山真男は、「(宣長は)未来を含む一切の歴史の理が神代に凝縮されていることをくりかえし主張している。この命題は一見するほど非歴史的ではなく、歴史哲学のうえでも重要な問題に触れている」と解釈しています。しかしながら、この記述を、別な角度からとらえてみると、次のような解釈ができるのではないでしょうか。
 ①の「の中の善悪き、移りもて来しさま」と、②の「凡て世間のありさま、代々時々に、吉善事凶悪事つぎつぎに移りもてゆく理」の「善悪き」と「吉善事凶悪事」を、宣長は生命の誕生と死のことと言い、これが自然の理としていつの世にも交互に移り変わると言っています。これは、先に示した。

生物の死→肥沃な大地→生物の生成→生物の死・・・

の「自然回帰」のサイクルのことです。 しかも宣長は「うむ」「なる」の二元論に気付き、結論として「これは未来永久に続く理であり、神話の神代の物語に、その内容はすべて書かれている」と確信をもって述べています。 宣長は、レヴィ・ストロースやユングを知ることなく、独自に『古事記』を読み続けることによって「日本の神話の構造」を見抜き、祖先たちの「隠した宝物」とそのメッセージを読み解いていったのです。 故に、宣長の解釈に従って神話の「死穢」の問題を見ていくと、非常にわかりやすく理解できます。

 さて、それでは、宣長の解釈を参考にしながら、黄泉の国の物語に隠されている「日本人のお墓」の原点を見ることにします。特に墓石の起源がここには見て取ることができます。

 「千引岩」の部分は次の通りでした。

イザナギは、千人でやっと引き動かすことができるほどの大きな「千引岩」を黄泉津比良坂まで引き、入り口をふさぎました。そしてイザナギとイザナミの二神は、その石を中にして向かい合い、互いに最後の別れを告げました。(事戸を度す)

イザナミの命のことを「黄泉津大神(あの世の大王・冥界の大王)」と呼び、そして黄泉の坂をふさいだ石(千引石)のことを「道反の大神」もしくは「塞ります黄泉戸大神」という。

 この黄泉津比良坂での事戸を度した物語については、『日本書紀』の「絶妻之誓」を「コトド」と読ませた例と併せて、離縁宣言のように解釈される場合もあります。ですが、それは表面的な見方であって、「事戸」は死別の物語なのですから、もっと重要な意味が隠されているのです。

 第一に、イザナギを「文化」、イザナミを「自然」に置き換えると、この時初めて祖先たちは、文化として「死の確認」をしたと読み換えることができます。

 第二に、文化的な死の確認によって、自然死は、自然のものではなく文化の範疇に属することとなります。文化的な死の確認とは、自然界の死と断絶することとなります。換言すれば、「死の確認を文化的に決着した」ということで、それが「事戸を度す」ことの隠された意味です。

 第三に、その結果、どうしても文化的な死の確認をあらわすシンボルが必要になります。このことは「お墓」のきっかけとして、非常に重要です。

 なぜならお墓がそのシンボルだからです。シンボル(文化活動)を持つのは、「動物はお墓を作らない」(『アラン人生語録』彌生選書)、と言う通り、お墓は人間の文化的所産です。文化的な死の確認をあらわすシンボルとして、死の儀式(葬儀)、埋葬儀礼、埋葬後の儀礼(追善・先祖供養・先祖祭祀など)のための、お墓や位牌が必然的に作られます。
 死の儀式・お墓・位牌は、①自然界の死者が現世と決別したシンボルであり、②文化的な意味での死者の世界(来世)が始まり、③生者とのつながりをはじめるためのシンボルです。 イザナギが「事戸を度」した意味とは、こうした「文化的な死」の始まりを意味するのです。

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