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第四二回 「墓石の原点~その5~」・・(平成21年8月1日)

 ところで、ここで未だ手つかずの問題があります。
 イザナミのおどろおどろしくけがれた死による腐敗の姿と、イザナギを黄泉の国へと引き戻そうとした、イザナミの恐ろしい怨念について、どう理解するべきか?ということです。

 この問題については、あまり突っ込んだ解釈はないように思われますが、女神イザナミの言葉と、その後の男神イザナギの行動に、これを解くカギがあります。

 イザナミの「決して私を見ないで!(我をな視たまひそ)」という強い禁止と、それを破って火を灯し、イザナミの腐敗した姿を見たイザナギの行為です。
 「タブー(禁忌)」を破ったイザナギは、当然、イザナミの恐ろしい「報い」を受けることになります。

 この話自体は、どこにでもあるお伽話のようで、何の変哲もない単純な内容に見えます。しかしそこには大きな意味が隠されています。ここでも「イザナミ=自然」「イザナギ=文化」と置き換えて読みなおすと、その意味が見えてくると思われます。

 自然界では、死者が大地に還って(自然回帰して)土に同化するには、腐敗化という、豊かなものをもたらす「偉大なマイナス」となるための神聖なプロセスが不可避となります。それが自然の理(大原則)です。神聖なる腐敗化は、自然界の中で静かに、そして確実に進行しています。これを妨げることは絶対のタブーです。このタブーを犯すと、自然は「豊かな稔り(豊饒)」もたらさなくなり、結局自然界のサイクル(理)が破壊されるからです。
 ところがイザナギという「文化」は、この再生に至るプロセスの進行を待ち切れなかったのか、あるいは神聖な自然回帰の理を「うっかり」失念したのか、この絶対のタブーを犯してしまいました。

 この状況は、現代社会に通じると見る向きもあるかもしれません。が、ここでは本筋から外れますので割愛します。

 「うっかり忘れた」と書いたのは、イザナギはイザナミの亡骸を鄭重にお祀りして埋葬している(葬ぶりまつりき)をおこなっているからです。イザナミの死が、自然のサイクルによってやがて豊かな稔りがもたらすことを、イザナギは知っており、それ故にイザナギという文化によってシンボル化された「埋葬」という儀式をおこなっているはずだからです。
 イザナギは、この自然のサイクルを知っていながら、あまりにも長い間待たされたため、つい「うっかり」タブーを忘れてしまったのではないか?と解釈できると思われます。

 神話の時代よりすでに、人は大地の中に入って、あるいは墓を暴いてまで死者の変わり果てた姿を見るという行為は、絶対におこなってはならぬタブーであった、ということがわかります。
 これは何も人間に限りません。犬やオオカミなどの動物による「墓暴き」もあります。それを防ぐために遺体の上に大きな石を置いて埋葬したことは、考古学でも事例が報告されています(「抱石葬」など)。しかしいまは、神話の祖先たちがその行為を固く戒め、子孫に伝えるため、ことさらにきたない「けがれ」と、「恐ろしい」ストーリーを創った、と説明しておきます。
 つまりこれは「墓暴き」に対する「罪と罰」の物語なのです。

 この結果イザナギ(文化)は、鄭重に祀って埋葬した上に、さらに千引石という二重のシンボルを造らざるを得なかったのです。なぜなら、ひとつは自らの過ちに対する償いのため、そして自らが犯した過ちを、子孫が繰り返さないため、そしてなによりも自然の秩序を回復するためだった、と考えられます。

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