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2011-07

法要

先日、祖母の一周忌が行なわれた

 

私の父は喪主であるため

両親は法要を取り仕切ることとなる

とても学びの多いものとなり

両親には感謝している

 

「法要」の本来の意味は

釈迦の教えを知ることである

 

現在の日本は

供養のことを表し

死者を弔う儀式全般を「法要」と呼ぶが

そちらは本来「追善供養」または、「追善法要」と呼ばれている

 

どこの家でもそうであると思うが

家族の死をきっかけに

疎遠ぎみの家族が揃い

法要をきっかけに、往来が頻繁となり

家族の大切さなどに気づかされたり

先祖を知る機会になったりもする

 

うちも例外ではなく

祖母の死をきっかけとして

20年ぶりに叔母と再会し

一周忌、三周忌があり

3年連続で会う機会をいただいた

 

これはまぎれもなく

祖母の死がなければ

無かったことであり

法要があることによって

親戚の交流が深まり

新しいキッカケが生まれるのである

 

故人も自分の死をきっかけに

家族がそろい

命が繋がっている様子を確認できることは

喜ばしいことなのであろう

 

故人を偲び

葬儀の時では、話せなかった話をし

自分の遺伝子の確認をして

自分の存在を先祖に感謝することにより

日々、心穏やかに日常を送ることができるのかもしれない

 

小学生の女の子が言った

「どうして、何度もお参りをするの?」

 

子どもにしてみれば

無駄な作業に思われる法要も

親族が集い、個々に何かしらの学びはあるならば

本来の意味での「法要」と言えるのかもしれない

真理か?潜在意識か?~神話の中の死生観~

死生観については、古今東西、さまざまな形で語られている

そのひとつとして「神話」というものがある

 

日本の神話で具体的に死後の政界をえがいているのは

「黄泉の国」のイザナギ(男神)・イザナミ(女神)の話だけだが

神話の中の話とはいえ、このストーリーは長い間、日本人の死生観に大きな影響を与えている

 

多くの人々は、神話の中の話は歴史的な事実ではなく

「作り話」や「おとぎばなし」と思っているようだが

それは大きな誤解だ

 

まず、神話の信憑性の論議の前に

この神話の数々は

人が長年にわたって経験から得た叡智や

人類の根源的な偉大な知恵が

さまざまな形のドラマとして伝えられ

メッセージ、または教訓として伝えられている

 

そして、自分の知恵だけでは解決が困難に思われる危機に直面した時

祖先の神話を思い出し、乗り越えてきたのだ

 

これらの神話を単なる物語としてだけでなく

価値を正しく見出し、現代に解明したのが

心理学者のユングなどだ

 

神話は、日常ではない非現実的なストーリーが展開されるが

それは、潜在意識(無意識)の世界が現れたものだと提唱したのだ

 

人の行動は、意識していることよりも

潜在意識がその主導権を握っていることが

最近、語られていることだが

 

神話は、その潜在意識を物語として表現したものだと考えられている

そのいきさつに関しては細かい講義が必要だが

ざっくりと説明すると

 

神話が、世界各地で共通する内容が多いことがあげられる

 

その昔、民族同士の行き来が不可能であった時代から

人は、神話の中で同じような神話を展開しているのだ

 

それは、なぜか?

 

人間の先祖の遺伝子の中にその情報が組み込まれていて

それが潜在意識として残り

神話の中で表現され

世界各地で似た様なストーリーが展開したのではないか?というのがユングらの見解である

 

それは真理なのか?人類共通の願いなのか?

 

見えるものだけで簡単に語れないのが「死生観」なのである

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