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第六回 「仏教のお話 その2」・・(平成18年8月1日)

中国の文化・習俗を語る上で、決して無視できないものに儒教と道教があります。「教」となっているために、宗教的なイメージが強いかと思われますが、厳密には儒教も道教も「宗教」とは言えません。古代中国の春秋戦国時代に生まれた、いわゆる「諸子百家」と呼ばれる、非常に政治的な活動をおこなった集団の一派です。なので、以下「儒教」は「儒家」、「道教」は「道家」と記述することにします。

 儒家は、特に道徳規範と祖先崇拝を尊重します。儒家が重要視する書物に、いわゆる「十三経」や「四書」がありますが、そのうちの『禮記』『儀礼』『周禮』といった礼儀に関する書物の中では、「曲禮三千」という言葉があるように、様々な場面での礼儀に関して、非常に事細かに記載されています。特に葬儀に関する記述量は群を抜いて多く、このため、儒家はもともとは葬儀屋の集団だったのではないか?と考える専門家もおります。
 ちなみに日本では、葬儀の後の四十九日や各年時でおこなわれる法事といった法要がおこなわれますが、これらはいずれも儒家の書物に基づいておこなわれているものです。

 これに対し、道家はロジカルな議論を好む傾向が見られます。弓矢の達人に教えを請おうとして、達人に弓矢を渡したところ、達人はそれがなんなのかわからない、とか、一見弱々しい水や赤ん坊が実はもっとも強い存在であるといった、逆説的な内容の説話が、関係する書物に多く観られます。
 政治的にも「なにもしないことが自然なことだ」という考え方を持っていたために、世捨て人(隠者)として暮らす人も多く、このあり方が、民間の仙人信仰と結びついて、宗教的な色合いを帯びていきました。

 さて、中国で最初に仏教が注目されたと言えるのは、いわゆる三国六朝の時代です。この時代は、後漢末期から始まり隋の全国統一まで、約400年にわたって続いた戦乱の時代です。一般民衆だけではなく、支配階級にも厭世的な雰囲気が広まっていたことは容易に想像ができます。
 当時すでに、儒家の考え方は政治に深く反映されておりましたが、その中でも隠者に対する憧れのような嗜好が、支配階級にも広がります。これと併せて、仏教に対しても興味を持つ人々が増えていきました。
 というのは、まず、儒家の言う道徳規範を守ったところで、人々の幸福は約束されないのです。例えば、孔子の一番弟子の顔回は、ことあるごとに孔子に誉められていますが、結局貧乏なまま早死にしてしまいます。義理を通した伯夷叔斉の兄弟は、結局、山でのたれ死にます。結局まじめに生きたところで、ろくな人生にもならねぇや、という考え方が広まっていったのかも知れません。ともかく、厭世的な世相を反映して、老荘思想と仏教が、知識階級の中でも広まりを見せていきます。
 また、それまでの中国の習俗の中には、死後の世界や生まれ変わりといった考え方が存在していませんでした。ところが、もう日常が戦争の中で過ごした時代ですから、儒家のように道徳的な生活を一生懸命やったところで、結局はいつ死んでしまうかわからない。ならば俗世を離れて日々飲んだくれるか、次の人生では幸せになりたい、という考えが生まれてきても不思議ではないと思われます。この「生まれ変わり」について、体系化して説明されていたのが仏教だったのです。これを中国では「三世報応」と表現され、仏教の中心的な教えであると理解されるようになります。
 こうして、六朝時代の仏教は、道家の主義主張を関わりを持ちながら、知識階級の中で広まっていきます。これをいわゆる「格義仏教」と呼びます。
 ところで、生まれ変わり、いわゆる輪廻という考え方は、仏教に限らずインド文化圏全般でみられる考え方です。中国では輪廻に救いを見いだしましたが、インドに於いては、この輪廻の悪循環からの脱出(解脱)こそが救いに他なりません。これは文化的な素地の相違から産まれた変容ですが、いずれにしても、日本に最初に入ってきた仏教は、中国で理解された仏教でした。

 時代は下って、唐の時代になるとシルクロードに代表される、東西文化の交流の発達によって、仏教文化も広く世の中に浸透していきます。併せて、よりインド本来の仏教に近い教えも伝わってきました。これがいわゆる密教です。日本にも遣唐使を通じて、空海や最澄が日本に伝えてますね。

 さらに時代が下って、宋の時代になると、儒家の中に自己修養を重んじる考え方が産まれてきます。いわゆる朱子学がそれに当たるのですが、朱子学者は修養の方法のひとつとして、仏教の座禅を取り入れました。禅宗で言われる「只管打座」という言葉は、朱子の書物でもたびたび観られます。
 明の時代になると、朱子学に対立する形で陽明学が産まれますが、陽明学者の中には、より仏教的な思考を取り入れた考えを持つ者も現れます。
逆に仏教の側でも、こうした儒教の新しい学派の理論を受け入れていきます。中国には、佛教関係の書籍を集めた『大蔵経』という文集がありますが、この中には朱子の書いた書物の他、儒家と目される学者の手による書籍も多く収められています。

 江戸時代以前の日本は、インドとは直接的な文化の交流はなく、仏教も含めたインド(当時は「天竺」と呼んでました)文化は、ほぼ全てが中国を経由して日本にやってきました。
前回触れたように、日本に伝わってきた仏教は、日本の文化に合う形に変化して受け入れられましたが、その前の段階として、中国の文化に沿った形に変容した仏教が、日本に伝えられています。
 中国的な解釈を加えられた仏教の特徴は、「三世報応」や、祖先崇拝の重視とそれに関わる秩序化された儀礼、朱子学・陽明学の影響を受けた自己修養などがあげられますが、いずれもが、日本の仏教文化に深く影響していることは、皆様の日常生活で関わる部分でも感じることができるのではないでしょうか。

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