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推古天皇と聖徳太子②

推古天皇は、天皇に即位すると
甥の厩戸皇子(むまやとのみこ)を皇太子にして政治を担当させた

厩戸皇子は用明天皇の子であり
両親は共に蘇我稲目(そがのいなめ)の孫にあたる
蘇我馬子の娘である刀自古郎媛(とじこのいちつめ)を妃として迎えた

厩戸皇子は、蘇我氏の血で固めた蘇我氏のホープである

母が厩の戸にあたった時に出産したために厩戸皇子と呼ばれた

厩戸皇子は生まれてすぐに言葉を語り
成人してからは一度に10人もの話を聞き
その一人一人の言葉を理解して的確に返答したという

高句麗からきた高僧の慧慈(えじ)に仏教を学び
仏教の振興に大きく貢献した
自分の仏像を秦河勝(はたのかわかつ)に与え
蜂岡寺(京都太秦の広隆寺)を創建させた

鞍作鳥(くらつくりのとり)に命じて飛鳥寺に大きな釈迦如来像(飛鳥大仏)を作らせ
自分の斑鳩宮(いがるがのみや)に法隆寺も建てるなど
かなりの勢いで仏教を広めていった

聖徳太子(厩戸皇子)は、推古11年(603年)に冠位十二階を導入
個人に対して12段階に分けた位を授ける制度で
氏族単位で担ってきた朝廷の官僚組織を改革し
生まれだけではなく個人の能力や実績を重んじて位を与えた

さらに官僚制度をより強固なものにするために
役人の心得を記した十七条憲法も施行
その内容は国民への奉仕の心を説き、税の横領を戒めるなど
役人に対して高い道徳精神を求める内容となっている

推古15年(607年)には聖徳太子は小野妹子を隋に遣わした
この遣隋使は雄略天皇が断交してからおよそ130年ぶりの国交回復となった

隋への国書では対等な関係を主張し皇帝煬帝を怒らせたと
中国の歴史書には記されている

日本書記には書かれてはいないが
西暦600年にも遣隋使を送っていたが
法整備も進んでいない遅れた国だとバカにされて相手にされなかったようだ

冠位十二階や十七条憲法を定めるにいたったのも
600年の遣隋使の失敗を踏まえて
官僚制度を整える立派な国をアピールするためだったと思われる

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