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推古天皇と聖徳太子①

物部守屋率いる軍に対し完全勝利した蘇我馬子は
空席となっている天皇の座に誰が就くのかを
姪であり故敏達天皇の皇后である炊屋姫(かしきやひめ)と相談して
崇峻天皇を第32代天皇として即位させるとことにした

崇峻天皇は欽明天皇と蘇我馬子の娘との子なので
蘇我氏の血を引く天皇となった

蘇我馬子はこの崇峻天皇を手駒の一つとしか考えていなかったが
次第に関係が悪化していき
蘇我馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて
崇峻天皇を殺害してしまうのであった

過去に暗殺された天皇は
安康天皇と崇峻天皇の二人だけである

このように王権を自在に操る蘇我馬子だったが
非難するものはもう誰もいなかった
政権で力を持つ元皇后の炊屋姫もこの件に関しては承認していたようだった

次に蘇我馬子は蘇我氏の繁栄のために炊屋姫を天皇にしようと奔走し
ここに初の女性天皇である第33代推古天皇が誕生した

他に男性の皇位継承者がいなかったわけではないが
女性を天皇に選んだのには理由があった
それは、どうしても蘇我氏の血を天皇家に入れたかったこと
そして蘇我氏の血が全く入っていない敏達天皇の遺児である押坂彦人皇子(おしさかひとのみこ)が天皇になることをどうしても避けたかったからである

蘇我氏の血が濃い厩戸皇子(聖徳太子)が皇位に就くまでの中継ぎではないか
という説もあるが、この時代には在位中に退位して皇位を譲る制度はなかった
一度、皇位に就けば崩御するまでその座に居続けなければならないので
聖徳太子を皇位に就かせることには無理がある
推古天皇は中継ぎではなく「蘇我王朝」を盤石なものにするための方策だったのだろう

推古天皇は聡明な女性であったようで
群臣からの信頼も厚かったことも皇位に就いた一要因であったとも言われている

蘇我馬子は自分の敷地内に小墾田宮(現在の奈良県明日香村)を開かせ
推古政権をコントロールしていった

この推古天皇が即位した593年から約100年間を飛鳥時代と呼ぶ
この時代に仏教は完全に定着し仏教文化が華開いた時代でもある

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