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「霊」と「霊魂」について

一般的に「霊」や「霊魂」という言葉はよく使われているが

実際に何のことを指しているかについて具体的に説明することは難しいだろう

 

「霊」は、死んだものから抜け出した「魂」と考えられる場合が多く

子どもなどが使う「おばけ」というのも、この「霊」に該当する場合がある

 

よくテレビなどで霊媒師が登場し

霊を憑依させ、会話をする…などといったものが行なわれていたり

「霊がたたる」といって、お払いをするものがいたり

その解釈によっても、「霊」のニュアンスは多少違ったものになってくる

 

ここでは、「霊」は存在するのか、しないのか?

といった検証をするつもりはない

 

この「霊」というものは、一体どのように考えられていた存在なのかを説明していきたいと思う

 

私達は、お墓参りをする際、もしくは仏前に手を合わせる際

自然と心の中で、対象となる故人に向かって話かけている場合が多い

「安らかにお眠りください」

「安らかに往生してください」

「ご冥福をお祈りします」

「私達を見守ってください」

などが多いだろう

 

その声を掛けている相手が、「霊」であると考える場合が多い

それは、「霊」の存在を感じて行なっている儀式ではなく

(感じている人もいるのかもしれないが…)

頭の中で、その存在を信じて声を掛けている

もしくは、そうするものだと慣習になっているものなのだろう

 

お墓や位牌に、故人がいると信じ

その故人に向かい、自分の気持ちを伝えることで

先祖とのつながりを感じることができれば

それはそれで、幸せなことなのである

 

古代中国や朝鮮半島では

その故人に話しかける「なにか」を「霊」や「霊魂」と呼んでいたので

そのまま日本でも、そう呼ばれるようになったと考えられている

 

さかのぼって、インド仏教では本来「霊」や「霊魂」の存在は考えられていなかったようだが

生まれ変わる場所を示す「六道輪廻」という考えがある

中国では、「霊」の存在がなんとなく信じられていたので

インドから中国に仏教が伝わった際には

「六道輪廻するのは霊魂」と、考えられるようになった

それが、そのまま日本に伝わってきたと考えられる

 

インド仏教では、実は「霊」の存在は考えられていなかった…という事実は

中国に伝わった仏教の中では、なかなか受け入れられず

中国仏教に歴史上でも、この「霊」の存在は大問題になっていた

それは、古代中国の「霊魂観」が人々の生活の中に

長い間にわたって、根強く定着していたことから

「霊」の存在を否定していたわけではないが

そのような形で語られていないインド仏教に対して受け入れることが難しく

少し解釈を自分達の都合に合わせて変更して

中国仏教となっていたようである

「仏教」について

お墓を語る上で、外すことのできない事柄が宗教である

それぞれ宗教によって教えが違う…ということは

死生観も違ってきて

当然、そのお墓に対する考え方も変化してくる

 

日本は、仏教に沿って葬儀を行う場合が多い

仏教徒が多い…というよりは、自分の先祖にならって

そのまま、仏教式の葬儀を取り入れている家族が多いのではないだろうか?

日本人は、柔軟な思考の持ち主なのか…葬儀は仏教式で、結婚式は教会で牧師の前で契約を行なう人も少なくない

これは、日常的に宗教観を取り入れて生活している…というより

人生の節目には、宗教的な形を必要とする場合が多いので

その時に合わせて臨機応変に対応しているのだろう

 

しかし、宗教観というものを深く追求していけば

自分の生き方を、その宗教観に沿わせる形になるので

日常の中で無視しながら生きていくことは難しいだろう

 

日本人の多くが葬儀で取り入れている仏教にしても

(あえて、信仰しているという言葉は控える)

ひとくくりにできないほど、複雑な様相である

 

では、仏教の教え…すなわち、最終目的はどこにあるのかご存知だろうか?

仏教とは「仏と成ること」「成仏すること」を最終目的とする宗教である

人間の苦しみから解放されて、完全なやすらぎの「さとり」を得た人のことを、「仏」「ブッタ」「覚者」「如来」などと言うが

お釈迦様が目指したのは、この「さとり」を得た「仏」となることであった

 

この2500年前にお釈迦様によって説かれた宗教は

長い年月と、広い地域に広まったこともあり

解釈が変化し、宗派に分かれ、多種多様な解釈が世界に存在している

その時の社会情勢によって変化し

また、その時代の都合に合わせても変化して

自分達の解釈が正統派であると主張する宗派が数多く存在するので

同じ仏教と言っても、全く違ったものになっているのである

細かい歴史的背景の解説は別の機会にして

自分の宗派に対する教えや解釈、その歴史的背景を理解することをおすすめする

そうすると家族や親族の葬儀に望む姿勢も少し変わってくるだろう

「けがれ」と「死」がもたらす恵み

以前、「死」が「けがれ」や「不吉」なものとして捉えられ

敬遠するようになったのは、最近の情報操作が原因ではないか?と書いたが

生活の中で敬遠しがちな、その「けがれ」は、新しいものを生み出す力として解釈されていたようだ

確かに「死」=「けがれ」「きたない」「こわい」

などのマイナスイメージは否めない

しかし、この死というものは

命あるもの…細胞の活動により、その形を保つものに関しては

避けて通ることのできない、必ず経験するものである

死は、細胞の機能停止により、その個体としての役割を終え

時の経過とともに腐敗していく

しかし、その腐敗活動は、新しい個体への生まれ変わりである

原子的な解釈では、地球全体として質量保存の法則が成り立つと考えると

その細胞は分解され(腐敗し)別なものへと生まれ変わり

その作業を半永久的に繰り返しているのが

地球上の生命体だ

その「死」は、新しいものの誕生への序章と考えることは

昔からあったようで

「古事記」を読み解くと

「死」ばかりではなく、排泄物のような「汚い」ものさえも

人々の生活に欠かせないものへの生まれ変わりとして描かれている

その考えは、単純に「けがれ」から「必需品」への生まれ変わりではなく

もっと高度な構造を持った哲学的な考えをもとに

多くの経験から会得した信憑性の高い論理となっている

そのように、先祖が多くの経験から会得した「死」に対する解釈を理解しないことには

現代、行なわれている「お墓」や「お葬式」の概念を

表面的にしか捉えられない可能性がある

今一度、本当の意味での「死」の迎え方を考えてみる必要があるのかもしれない

古墳時代のお墓についての、現代人の認識

古墳時代の研究は、考古学者にとって大変魅力的なものなのだろう

さまざまな制約を考慮したとしても

やはり考古学者の関心は、庶民の墓よりも、天皇や首長といった支配者の墳墓に向いているようだ

 

そのせいなのか、マスコミの報道のありかたなのだろうか

「庶民は墓を作っていない」という暗黙の刷り込みがなされているように思う

墓は、エライ人だけに許された特権のように…

 

民俗学者の中には

日本人は死体を「汚い」「怖い」ものと考えて、お墓を作らずに野山に捨てていたと考える人もいる

 

はたしてそうなのであろうか?

 

日本の歴史や、神話を紐解いてみても

日本人の死生観は、死者に対する尊敬と感謝で満ち溢れているようにも感じる

 

季節毎の行事で死者を祭り

身近な存在として、日頃の幸福を先祖に感謝し

自分の身の存在を先祖に投影することが自然に行なわれてきたようだ

 

この日本人の本来持っている

先祖に対する崇拝する気持ちが

「穢れ」のように解釈されてしまうのには、マスコミの報道の仕方にもひとつの原因があるように思われる

 

夏に行なわれる心霊特集

ホラーの漫画や映画などでスリルと恐怖心を味わうなど

死者に対して「汚い」「怖い」というイメージを刷り込ませてしまっているのではないか?

 

このように死者を冒涜し、ないがしろにすることは

自分自身の存在否定にもなりかねない

 

「怖い」存在から、本来の「尊ぶ」存在へと認識を変化させることで

日本人が本来持っている、人間の「和」の心が浮き彫りになってくるように思われる

真理か?潜在意識か?~神話の中の死生観~

死生観については、古今東西、さまざまな形で語られている

そのひとつとして「神話」というものがある

 

日本の神話で具体的に死後の政界をえがいているのは

「黄泉の国」のイザナギ(男神)・イザナミ(女神)の話だけだが

神話の中の話とはいえ、このストーリーは長い間、日本人の死生観に大きな影響を与えている

 

多くの人々は、神話の中の話は歴史的な事実ではなく

「作り話」や「おとぎばなし」と思っているようだが

それは大きな誤解だ

 

まず、神話の信憑性の論議の前に

この神話の数々は

人が長年にわたって経験から得た叡智や

人類の根源的な偉大な知恵が

さまざまな形のドラマとして伝えられ

メッセージ、または教訓として伝えられている

 

そして、自分の知恵だけでは解決が困難に思われる危機に直面した時

祖先の神話を思い出し、乗り越えてきたのだ

 

これらの神話を単なる物語としてだけでなく

価値を正しく見出し、現代に解明したのが

心理学者のユングなどだ

 

神話は、日常ではない非現実的なストーリーが展開されるが

それは、潜在意識(無意識)の世界が現れたものだと提唱したのだ

 

人の行動は、意識していることよりも

潜在意識がその主導権を握っていることが

最近、語られていることだが

 

神話は、その潜在意識を物語として表現したものだと考えられている

そのいきさつに関しては細かい講義が必要だが

ざっくりと説明すると

 

神話が、世界各地で共通する内容が多いことがあげられる

 

その昔、民族同士の行き来が不可能であった時代から

人は、神話の中で同じような神話を展開しているのだ

 

それは、なぜか?

 

人間の先祖の遺伝子の中にその情報が組み込まれていて

それが潜在意識として残り

神話の中で表現され

世界各地で似た様なストーリーが展開したのではないか?というのがユングらの見解である

 

それは真理なのか?人類共通の願いなのか?

 

見えるものだけで簡単に語れないのが「死生観」なのである

日本人の死生観

現代、人は死んだらどうなるのか?

という議論を日常的に活発的に交わされることは、あまりないが

この「死生観」は、生き方にも関わってくる考え方であることは間違いない

 

死んだらどうなるのか?

人それぞれ

宗教、人種、個々によっても変わってくるだろうが

この考えの源が、墓のありかたも左右する

 

人は死んだら「無」である

とい考え方は、科学至上主義の考え方に多く

慣習的に墓参りをするが

「死」を不謹慎…もしくは「けがれ」と考え

墓地に近づくことも、何か気味の悪いこと…と捉えがちになる

 

元検事総長の伊藤栄樹氏の著書に

「人は死ねばゴミになる」というものがある

内容は、人は死んだらおしまいだから

精一杯、生きていこう!という応援メッセージであるが

どこか先祖とのつながりを感じにくいタイトルである

 

本来、日本人にとって死者は身近な存在であった

縄文時代の遺跡などを調べていくと

人々が、先祖を日常の中にみいだし

墓も、遠くではなく

日常的に使用される道沿いにあったと思われる

はっきりした証拠があるわけえはないが

この時代の墓参りは

遠くの墓場に、盆や彼岸に行く年中行事ではなく

生活の一部として、共に生活していたのではないか?と考えられる

 

それも、小さな家族単位での弔いではなく

部落単位で、死者を弔い

死者を生きている人と同じように親しみを持った存在として

あるいはそれ以上の存在として大切にしてきたのではないかと思われる

垣間見えるものだけでも

死者を「きたない・こわい・たたる」などと考えていないことがわかる

ましてや「無」として捉えていることはまずなかったであろう

 

死者を「無」と捉えることは

先祖または他者への感謝が薄れ

個人主義に偏る可能性がある

 

先祖の存在を己の中に見ることで

生きている人同士のつながりだけではなく

過去の人類とのつながりを感じるはずである

 

過去を感じることは

自分の子孫、すなわち未来を感じ願うことにつながる

 

その感じる心の象徴が「墓」なのではないだろうか?

「墓」と「死」の解釈

前回、墓はシンボル(象徴)であると説明した

 

墓は、人の死後に祀られるシンボルであるから

その「死」に対する考え方が関わってくることは当然のことである

 

人が…その民族が、「死」に対してどう考えているかによって

墓の取り扱われ方も変わってくる

 

「死」に対して考えられる内容には以下のものがあると思われる

 

●     人が亡くなるとは、どういうことか?

●     人の死を、どう考えたか?

●     人は亡くなると、どうなるのか?

●     死後はどこへ行くのか?

●     あの世はあるのか?

 

大きく分けて、このような課題が語られるのではないだろうか?

 

これがわかっていないと

墓のありかた自体が曖昧になってしまう

 

一般的にこれを「死生観」「死後観」「霊魂観」「他界観」などと呼ばれている

 

これは人々が何千年もの長い年月をかけて

先祖代々、大自然から学んだものであり

先祖の偉大な智慧から生み出されたものである

 

それは、多くの人々によって育まれて、受け継がれてきた

民族の宗教観である

 

これは「民族宗教」といってもよいだろう

 

この民族宗教は、先に述べたように

自然から学び、智慧を集めたものだが

そこにさらに、外来の宗教と結びつき

新たなものが付け加えられたり

アレンジされたりして

さまざまな価値観が発生していったのである

 

この民族(民族宗教)が違えば

当然、葬儀の方法、墓のつくり、埋葬方法などが変わってくる

 

それぞれの民族によって

死の意味が違えば、当然その方法も違ってくる

 

逆に言えば

その意味を知らずに一連の儀式を執り行なうことは

表面的、事務的になってしまい

心の入らないものになってしまう

 

なぜこの儀式を執り行なうのか?

そこには何の意味があるのか?

を考え、学ぶことにより

心を入れて儀式を行なえるだけではなく

基軸を理解できるので

都合により変更を余儀なくされる場合でも

その民族の常識を大きく脱することはないはずだ

 

例えば、イスラム教では

「火葬は神を冒涜する」

と考えられているので土葬にする

そして霊魂は埋葬した翌日に体から抜け出ると考えられているので

土葬は簡単にし、顔を聖地メッカに向け右側臥位にする

三日間、喪に服したあとは日常に戻り、墓を作ることもない

 

このように、民族、宗教によって

死後の考えが違うので

よく理解し、儀式を行なうことで

自分のルーツを知る良き機会となることだろう

お墓とひとことで表すと…

 

「お墓を知っていますか?」と質問すると

当然、大多数の人々が「知っている」と答えるであろう

形、形式は様々であるが、ほとんどの人がその存在を知っている

 

しかし、質問を変えて「お墓とは何でしょうか?」と聞かれて答えられる人は少ないでしょう

「お墓は、亡くなった先祖に入ってもらう場所…」

間違ってはいないが、「お墓とは?」の問いに対する答えとしては

不完全なような気がする

 

「お墓」とは?

ひとことで言えば「シンボル」である

と言えるだろう

 

そもそもシンボルとは…

日本語で言う象徴である

憲法にも登場してくる

「天皇は日本国の象徴である」…と

 

このシンボルという言葉も難しく

あいまいで、解釈や学説も人によって様々である

 

わかりやすい例で言うと

「お金」は身近なシンボルではないだろうか?

「お金」そのものには何の価値もない

社会の共通認識として「お金」は価値のあるものだ

として存在しているから価値があるのであって

「明日から、何の価値もありません!」

という共通認識が発生すれば「お金」はだたの紙切れである

そういった意味でも、お金は「シンボル」と言えなくもない

 

「お墓」も、そのもの自身はただの石だったり、木だったりする

しかし、子孫の共通認識として

「お墓」は、先祖が眠るシンボルである-と決められているので

みんなが納得して、そこに思いをはせ

先祖の安らかな眠りを、供養を

その「石」なりに託すのである

 

「お墓はシンボルである」と考えてみると

「お墓」に対する考えが変わり

もっとシンプルに、もっと身近なものになってくるのではないだろうか?

 

宗教観を超え、神の存在も超え

自分の中に「お墓」の存在価値を見出した時

また新たな発見があることだろう

「神」もまた、「シンボル」と言えるのだから…

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