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功徳と回向の思想

インドの小乗仏教においては

自分の修行に膨大な時間をかけ

その結果、如来(=仏)となって初めて人々を救うことができるものだった

 

しかし、大乗仏教は、功徳を回向する慈悲と救いの論理があり

仏や菩薩にならなくとも、誰でも「供養」という「浄業」によって福徳を積むと

自分だけではなく、他人をも救うことができる「功徳」の力が生まれる

それを、亡くなった家族などに差し向けること…つまり「回向」ができるようになる

その結果、仏教では誰もが望む最終目的である「成仏」が可能になった

 

このインドの思想が中国の「先祖祭祀」と融合し

日本に伝わり、それを受け入れてきた日本では

死者の全てを成仏させる発想の庶民仏教となっていった

 

ここで、庶民仏教に大きな役割を果たす

神社の「お祭り」と、仏教の「先祖供養」との決定的な違いについて説明したい

 

「お祭り」を行なうには、そこにはすでに神様がいることが前提となってくる

それでなければ、お祭りは成り立たない

しかし、仏教には神が最初から存在するわけではなく

死者の浄化を待つこととなる

亡くなった人を神とするには、死者の穢れの「死穢」を長い時間をかけて浄化する必要がある

霊が完全に浄化するまでの期間は

人でもなく、神でもなく、とても不安定な状態で存在していることになる

人々は、この長い年月を待つ以外に方法が無かったのである

 

しかし、この問題を庶民仏教は解決することになる

問題が簡単に解決したわけではないが

日本古来の文化や民間信仰などが長い時間をかけて少しずつ習合していき

その結果として、短期間で仏になる思想となっていったのである

 

そこに大きな功績を残したのが、「功徳と回向」の思想だったのだ

 

その仕組みはこうである

 

まず、人が亡くなったら、その霊はお坊さんに仏弟子にしてもらい

お坊さんによる読経や引導などの葬式の、様々な儀式を経ることで

死者は、仏になるのである

 

この段階の死者は、古来の民俗学に沿って考えると

穢れが多く残る死霊の状態なのだが

庶民仏教では、死後の葬式を行なうことによって

死者の罪も煩悩も穢れも消し去り

悟りの状態となり、仏様として浄土への往生を可能にしたのである

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