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古事記の性的表現について

古事記を読んでいると、性的描写が多く
それが具体的で、卑猥なものが多いことに驚く人が多いだろう

 

これは古事記が特別にいやらしい物語なのではなく
日本に限らず、神話にはエロスはつきものなのである
神話にエロスが決まりごとのように入ってくるのは
どうしてなのだろうか?

 

古事記に関しては
最初に、性的な描写が登場するのは

イザナギとイザナミの国生みの場面である
2柱は、国を生むために

「みとのまぐわいをしよう」とか
「あなたの足りないところに、私の多いところを合わせてみよう」
とか、現代ならセクハラで訴えられそうな
具体的で、包み隠す事ない誘い文句を言っているのだ

そこまで、ハッキリ言うこともないだろう…と思うのだが
当時、性行為は儀式的な意味合いが強かったのである
性行為は、恥ずかしくて、隠すようなことではなく
婚礼の儀式であると同時に
子供を授かるための儀式だったのである

「子を授かる」

「子宝に恵まれる」
という言葉の通り、昔は生命の誕生は神からの授かりものとして
神聖で、ありがたい存在だった

そんな意味もあり
女陰(ほと)は、その神からの授かりものを
生み落とす場所として
神聖なものとして崇められていた
「女陰」の表現が頻繁に登場するのも
敬意を払ってのことである

そのようなことから
神聖な物語の中に、性的描写が多くみられることも
当然のことなのである

そもそも
性的なことは恥ずかしいことで、隠すことだ…という概念は
近代以降の思考である
江戸時代以前は、日本人はもっと性に対して寛容だったのである

明治以降、海外との交流が増えることで
性的なことを恥ずかしいものと捉えるようになってきた
古事記を現代の感覚で読んでみると
照れてしまうほどの赤裸々な性的描写のオンパレードなのだが
古代の人は、現代人のような感覚で考えているわけではなく
神の儀式として、もっと自然に考えていたのだろう

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