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あら年とあら御霊

喪の穢れを忌み嫌う…という感覚は

現代社会において、どのくらい残っているだろうか?

 

近しい人の死に対して

現代は、1年は喪に服すと言われているが

昔に比べれば、その行動の制限は軽くなってきているように思われる

 

現代は、日常生活が経済活動を基盤としているためか

喪に服す行動の制約が、大きな弊害となることは否めない

そんな現代の都合上、「喪の穢れ」…などと悠長なことを言っていると

生活がままならなくなるからだろう

 

そして、たとえ行動が制限されなくとも

死者を悼む気持ちに変化はない…と言い切ることが難しいのも現実である

 

簡素化された死者に対する儀式―

当然、先祖に対し思いをはせる時間も少なくなり

瞬く間に、日常と変わらぬ生活を送っている

その結果、家から死者が出ること事態が

昔に比べて、大事になっていないのだ

 

行動があるから思いがあるのか?

思いがあるから行動になるのか?

 

どちらにしても、現代の行事様式では

先祖に対する「思い」が軽くなっていること間違いないだろう

 

時代や、地域によっても大きく違ってくるが

死者に触れたものは「穢れ」と扱われ、生活上で大きな不便を強いられる

 

極端な場合には、隔離されたり

死者に触れたものが、別の者と接触した場合にも

二次感染的な扱いをされて

「穢れ」は、一種に伝染病のような扱いもされていた

公式行事(朝廷の儀式)に携わるものは

身内に死者が出た場合には

職務に関わることも許されず

一定の期間が過ぎるまで、謹慎状態となった

 

当然、めでたい席、晴れの行事に関わることは許されず

正月も、通常のように迎えることができない

喪に服しているものは、人様のしめ縄をくぐることは禁止され

そのかわりと言ってはなんだが

正月を迎える前に、お見舞いという形で訪問を受ける

「あら年(死者を出した年)の見舞い」である

 

見舞いの言葉は

「本年は存じも寄りませぬあら年でお淋しゅうございます」

「ことしは誠にお淋しいお年取りでござんす」

などと言われていた

 

めでたい年始のあいさつができないことに対する嘆きでもあるのだが

そちらは死者だ出たので、めでたい行事ができないが

私達は、淋しさに付き合いもせず

お祝いをしてしまうけど、悪く思わないでくださいね…

というニュアンスも含まれていたという

 

近年は「あら年」という言葉も使われなくなってきていて

死者を出した家…という疎外感も感じることがなくなった

 

生活が便利になればなるほど

死者に対する行いは、簡素化されていくようにも思われる

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