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墓地の法律と公園墓地

墓地は、なぜこれほどまでに短い期間で
その存在そのものの形まで変えていったのだろうか?

その大きな原因は、以前にもライフスタイルの変化であることは説明したが
それに付随して、墓地の場所も変化していく

しかし、これほど大きな変化があったにも関わらず
墓地に対する法律は、明治からあまり変わっていないのが現状である

現代の墓地の法律の基礎となっているものは
明治6年の「墓地の設置及び取拡げの制限に関する件」に始まり

明治17年太政官達第二十五号「墓地及び埋葬取締り規則」と、「同施行方法細目基準」で形を整えた

そして現在の「墓地、埋葬等に関する法律」は
戦後のすぐ後の昭和23年に規定されたものである
しかし、この法律は、明治初期から大枠では変わってはいない

昔、人々はその土地で生を受け
育ち、学び、結婚し、子孫を残し、老いて、死を迎え
そして、その土地の墓地に埋葬され、生涯を終えることが多かった

墓地の存在は、生活の一部であり
いつも近くにある存在であったのだ

それが、現代のように
追善供養や、盆や彼岸の時にのみ訪れる墓地のようになっていったのは
ライフスタイルの変化に伴い、公園墓地の存在が大きいだろう

都市開発が進み、人々が都会に集まるようになると
都市が膨張し、地方のはずれにあった墓地も市街地に取り込まれていくことになる

都市化の進展と、墓地の郊外への移転の繰り返しが限界に達し
その対策として、出現したのが
現在の公園墓地の元となる多摩霊園である

都市部の墓地を次々と無縁整理して、改装を繰り返しても
東京では、墓地を今供給できなくなっていったのである
それが、1918〜1919年頃の話である

多摩霊園の登場は、これまでの墓地に対する概念を大きく変えるばかりではなく
現代の墓地のスタイルに大きな影響を及ぼす、時代を画する墓地となった

公園様式によって、それまでの墓地の暗く陰湿な雰囲気を一新
急激な墓地の価値観の変化に馴染めない人も多かったが
その公園墓地の美しい景観は次第に人気になり
多摩霊園をお手本とした公園墓地は
次第に地方都市にも広がっていったのである

そして、この現代墓地の先駆者とも言える多摩霊園は墓地計画のモデルとなり
後に建設省(現在の国土交通省)の都市計画の「墓地計画基準」の基礎になった

そして、この多摩霊園を代表とする公園墓地は郊外に建設され
以前までの生活と共にする墓地ではなく
家族の住居や職場がある地域とは切り離され
墓地を地縁から離脱させることとなった

そして墓地は、家族と土地の繋がるのない地域に造成されていったのである

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