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第二二回 「お墓とはなにか?」・・(平成19年12月1日)

 『文化人類学事典』(弘文堂)では墓について、「一つの文化・社会のいろいろな特徴が集中して表現されている場所」と書かれています。
 「お墓とはなにか?」を考えるに当たり、後世、中国文化や仏教の影響を受ける以前のお墓を見ることで、日本人本来のお墓に対する思いを知ることができる、それはひいては日本文化の特徴を知ることにつながるかと思います。
 ということで、時代を追って、古代日本のお墓について考えていくことにしましょう。 

【縄文時代のお墓】 縄文時代の遺跡として、いろいろな意味で定説を覆して話題になった、青森県の三内丸山遺跡があります。
三内丸山遺跡については、多くの書籍によって紹介されておりますので、詳細はそちらに譲りますが、ここで注目したいのは、「二列の集団墓群」です。
 三内丸山遺跡は、1994年8月に、野球場と公園の建設が中止され、かなりの遺跡がつぶされた後に残ったものです。
そして、現場からは大量の縄文土器や遺構と、道の両側の斜面に向き合って、整然と二列に並ぶ約100基の土坑墓がありました。
 発掘当初、この道の長さは約50m、道の両側の斜面に、向き合って整然と二列に並ぶ約100基の土坑墓がありました。
この道幅は15mもあり発掘現場の中央を東西に貫くメインストリートです。
 その後の発掘で、この道は約500mほど確認され、その先は海まで続いていると推測されています。
 集落の中央を貫く、大きな道。そしてそれは海へと伸びている。それだけを見ても、この道は、三内丸山遺跡の集落にとって、極めて重要なライフラインであることがわかります。
その重要な道の両側に、どうしてお墓が作られていたのでしょうか?
 もし、死者を忌み嫌い、怖い存在と捉えていれば、墓地は集落から隔離された場所に置かれるのが普通ではないでしょうか。学術的な見地からは、この墓地の意味について特に語られてはいないようですが、少なくとも、三内丸山の集落においては、縄文人は死者を忌み嫌う存在としては捉えていない、そう感じさせられます。

【弥生時代のお墓】 佐賀県吉野ヶ里遺跡は、内外二重の堀に囲まれた環濠遺跡です。
その面積は約30ヘクタールもあり、このため「邪馬台国」の跡ではないか、とさかんに騒がれました。この遺跡は、三内丸山遺跡よりも約3000年後、今から2200年ほど前の弥生時代のものです。
 この遺跡のお墓の特徴は、以下の通りです。

・北九州一帯に特有の埋葬法である、大人用の「甕棺」が2000基以上出土したこと。

・二列になった墓列(列状墓群)がある。

・古墳時代の原型と見られる墳丘墓が二列の墓群の北側にあること。

・集落の北側に出入口と道があり、墳丘墓の横から列状の埋葬地を抜けて居住区へと続いています。

 三内丸山遺跡と共通しているのは、埋葬地が、居住区と隣接している、しかも集落の中でも比較的重要と思われる位置にある点です。
これは、古代日本人が、「死者も生きている人たちとともに暮らしている」という考えを持っていたことを示しているのではないでしょうか。
 墳丘墓の存在は、この時代には身分差がはっきりと存在していたことを示しています。
吉野ヶ里を訪れる当時の人々は、まず墳丘墓(おそらくは過去の集落の長たちでしょう)に触れ、続いて集落のご先祖様たちの間を抜けて、それから集落の人々と接することになります。
逆に集落から出て行く人たちは、最後に墳丘墓を抜けて外に出て行きます。
このことは、墳丘墓に眠る人たちに対する敬意を示した構造だと考えられないでしょうか。

 大人用の「甕棺」が多く出土するのは北九州一体です。子供用の甕棺は、ほぼ全国の縄文・弥生遺跡より出土しています。
また、中国大陸でも、新石器時代より前漢末期くらいまではさかんに利用されています。
また朝鮮半島からも出土していることから、子供用の甕棺については、中国大陸の影響を見ることができます。
 北九州で出土する甕棺には、二次葬・複葬といって、一度骨にしてから改めて甕棺に収められたものがあります。
 こうした、大陸文化の影響である甕棺に納める行為、二次葬・複葬といった、手間のかかる埋葬こそ、「死体を大切に扱っている」ということの証明になると思います。

 そして、吉野ヶ里遺跡からは、多くの副葬品も出土しています。
副葬品は、一般的には権力の誇示・象徴とされておりますが、もっと現実的に考えてみると、「死後の世界」のために収められているものだと思います。
そもそも、土の下に埋められてしまうものですから、後世の人々に対して誇示することなどできないでしょう。
 現代の私達が棺桶に納める品として、お花などの供物の他に、杖や草鞋、死装束、小銭を副葬品として納める習慣があります。これらはいずれも、死後の旅のために必要な品々として納められています。
 副葬品があるということは、「死後の世界」の存在を信じている、ということの具体的な証拠になるかと思います。

 このように見てきますと、縄文・弥生の古代日本人は、死者を大切に扱い、死後の世界の存在を信じていた、言えるのではないでしょうか。

 

 

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