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祖母の葬儀

私事なのだが

先日、祖母が他界した。

 

真面目に生きてきたとは言いがたい人生を送った祖母であったようだ

貯蓄も資産もない祖母であったが

その子ども達によって、立派に葬儀が執り行われ

先日、納骨の運びとなった

 

一見、ごく普通の葬儀風景

子、孫、曾孫が祖母の最期を見送り

我が身が、ここに存在するのは

この故人の存在なくしてありえない事実

日常では、あまり意識することのない

血の繋がり…

そんなことに想いをはせ

自分の中に存在する、この祖母の無形の家督を強く意識し

残された者たちは

先祖から受け継がれた

有形、無形の家督を

どのように次世代に繋ぐのかを思い描くのだ

 

葬儀は、故人の人生の総決算であり

見送る者は、自分の存在を認識する機会ともなる

 

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最近、こんな見出しをよく見かける

「各地で相次ぐ、生存不明の100歳以上の高齢者」-

 

戸籍の整備がまだ完全ではない時代だったという事情ももちろんあるのだろうが

自宅から死後数年経過した遺体が発見されたり

その子供が、親の遺体を隠し

そこで生活する事例も出てきた

 

死亡届を出さず

親の年金を受け取り続け生活をしている例もある

 

さまざまな原因の追究をマスコミが行い

行政の管理の甘さが指摘されたりしている

 

この問題を、ただ単に

「行政の怠慢」「身内による年金の不正受給」

ということで片付けてもいいものか?と疑念が沸き起こる

 

世間が、社会が、身内が…

人の死に対しての向き合い方を常日頃から意識していない結果のような気もしてくる

 

先祖の存在をないがしろにすることは

自分の存在をも、ないがしろにしているのではないだろうか?

 

まだ解決の道を見出していないこの問題は

いつかは、必ず、見送り、見送られる立場になることの意味

先祖の意味、そして自分の存在の意味を根本から考え直す機会にきていることを

証明している事件のようにも思われた

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