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仁徳天皇とその皇子たち③

聖帝と呼ばれた仁徳天皇が亡くなると
その長男の大江之伊耶本和気命(オオエノイザホワケノミコト)が後を継ぎ天皇となった
第17代履中天皇である

履中天皇が父である仁徳天皇の宮を引き継ぎ難波の宮で眠っていると
弟の墨江中王(スミノエノナカツミコ)が宮に火を放ち
履中天皇を葬ろうとした

臣下の阿知直が履中天皇を馬に乗せて、何とか宮を脱出
天皇一行は安全な大和を目指した

埴生坂(現在の大阪府羽曳野市)までやってくると
遠くに難波の宮が赤々と燃えあがっているのが見えた

大和に近い大阪の山口(現在の二上山北の穴虫峠)に到着したとき
ひとりの女が敵が峠の上で待ち伏せていると忠告した

履中天皇たちは南へ迂回し当芸麻道(現在の竹内街道)から入り
石上神宮にたどり着いた

履中天皇の身を案じ
もう一人の弟である蝮之水歯別命(タジヒノミズハワケノミコト)が
石上神宮へ駆けつけた
だが履中天皇は墨江中王に殺されそうになったことで
疑心暗鬼になってしまい蝮之水歯別命を信じることができなくなっていた
蝮之水歯別命は墨江中王を倒して潔白を証明しようと難波に向かった

蝮之水歯別命は正面から攻撃しても勝ち目はないと考え
墨江中王に仕える曾婆加里(ソバカリ)を裏切らせて
墨江中王を亡き者にした
反乱を鎮圧することに成功した蝮之水歯別命は
大和に戻る途中で主人を殺した罪で曾婆加里の首を切った

その土地のことを難波の宮に近いことから「近つ飛鳥」(現在の大阪府羽曳野市飛鳥)と呼
戦いの穢れを清めるために大和に戻ってから禊を行い
その場所を「遠つ飛鳥」(現在の奈良県髙市群明日香村)と呼んだ

この反逆から履中天皇は難波を嫌い
宮を磐余(現在の奈良県桜井市)に移し国を統治した

やがて履中天皇が亡くなると蝮之水歯別命が皇位を継いで反正天皇となる
そのあと反正天皇の弟の男浅津間若子宿禰命(オアサツマワクゴノスクネノミコト)が
允恭天皇となり
仁徳天皇と石之日売の子どもが
3代続けて天皇となった

仁徳天皇とその皇子たち②

国家を繁栄さえて、大規模な治水事業を行ったり
神風満帆に見える仁徳天皇だが
結婚に関しては悩みが絶えなかった

仁徳天皇の妃は石之日売命(イワノヒメノミコト)は
非常に嫉妬深い妻だった

仁徳天皇が召した吉備の黒日売(クロヒメ)は
皇后の嫉妬深さを恐れて船で故郷に帰ってしまった

その際に仁徳天皇が黒日売を難波の港まで見送ったことに
腹を立てた石之日売命は黒日売を船から降ろして
陸を徒歩で帰らせた

それを不憫に思った仁徳天皇は
淡路島に行くという口実を設けて皇后の目を盗み
淡路島から伝って吉備に向かい黒日売を慰めた

ある時、皇后が紀伊に行ったすきをついて
仁徳天皇は異母妹である八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)を妃にした
それを知った皇后は激怒し
難波に戻らずに淀川を遡り筒木宮(現在の京都府京田辺市)にこもってしまった

仁徳天皇は使者を送り説得を試みたが
皇后は全く耳を貸さず
最後には仁徳天皇が直接出向き頭を下げて
ようやく許しをこうた

仁徳天皇は女鳥王(メドリノミコ)に求婚したこともあった
だが皇后が嫉妬深いことが原因で断られてしまう

女鳥王は速総別王(ハヤブサワケノミコ)と結婚する
そして仁徳天皇を抹殺しようと夫をそそのかした

その情報を耳にした仁徳天皇は
ふたりを討ち取るために軍勢を送った

夫婦は手に手を取り合って
倉掎山(現在の奈良県桜井市の山)に逃げた
しかしほどなくして敵が追ってくると
今度は宇陀の蘇邇(現在の奈良県宇陀群曽爾村)を目指した
石之日売命いしかし、ここで二人は逆臣として殺されてしまう

ちなみに、争ったこの3人は
ともに応神天皇の腹違いの兄弟だ

妃の嫉妬に振り回される仁徳天皇は
人間らしさがあるが
これは夫婦間の問題というだけではない

自分の氏族から妃を出すことは
その氏族にとっては地位を高めることに繋がる

この物語は、単純に夫婦の浮気とやきもちの問題ではなく
皇后の出身氏族の勢力争いなのである

仁徳天皇とその皇子たち①

第16代天皇の仁徳天皇は弟である宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラツコ)
と皇位を譲り合って、継承者がなかなか決まらずに
宇遅能和紀郎子の死によって天皇となった

仁徳天皇は、善政を敷いたことで
理想的な天皇の姿であると称賛されている

ある日、仁徳天皇は山に登って国土を眺めていた
民家を眺望していても煮炊きの煙が全く上がっていないことに気付く
国民は貧困によって食事もできない状況だと気づいた

そこで仁徳天皇は国民に対して
3年間の税金の免除を決めた

税収がないので宮殿の修復を行うこともできない
宮殿は傷み、雨漏りが激しくなり
濡れない場所を探しながら移動して生活しるようなありさまだった

しかし仁徳天皇は民家から煮炊きの煙が上がるまで
税を徴収することはしないと決め
煮炊きの煙を確認して、ようやく税の徴収を再開した

国民を慈しみ大切にする政策によって
国は栄えて
国民は「聖帝の御代」と天皇の政策を称賛した

仁徳天皇は大和を離れて、難波の高津宮に宮殿を構え
朝鮮半島の先進土木技術を持つ渡来系の秦氏に治水事業を行うように命じた

山国の大和よりも難波の高津宮の方が
海外との交流には便利だったが
難波には淀川と大和川が流れ
それに加えて生駒山地の東に大きな湖もあるので
水害に悩まされる地域でもあった

仁徳天皇は水害に悩む国民を救うために
茨田(現在の大阪府寝屋川市)に治水用の提を作らせた
そして海に繋がる大きな堀江を作り
低湿地の水を抜き耕地を広げた

さらに田畑に引くための灌漑用水を確保するために
丸邇池(現在の大阪府富田林市または奈良市池田)や依網池(現在の大阪府堺市池内)
も秦氏に作らせた

小掎江(現在の大阪市天王寺区)を拓き
墨江の滝(現在の大阪市住吉区)も新設し
水上交通を整備し
茨田には朝廷直轄の穀倉も築造させた

一説にはこれらの大規模な土木工事は
のちの時代に行われたとも言われていて

仁徳天皇の功績を美化するために
ここにまとめられていると考えられている

応神天皇と3人の子③

古事記の中巻の最後には
天之日矛(アメノヒホコ)の来朝が書かれている

天之日矛が神功皇后の母方の祖先ということになっているので
ここに組み込まれているのではないかと思われる

日本書紀では神功皇后との関係は語られておらず
天之日矛の子孫である田道間守(タジマモリ)が常世国に橘の実を取りに行く話と関連づけて
垂仁天皇記に天之日矛の来訪が記されている

天之日矛の話に戻ると
昔、新羅のある沼のほとりで貧し身分の女が昼寝をしていた
そこに太陽が輝いて虹となり
眠っている女の陰部をめがけて貫いた
女は妊娠して赤い玉を生んだ

あるひとりの男性がその赤い玉を譲り受けた
そのあと、その玉は新羅の王子である天之日矛の手に渡った

その玉から流麗な美女が生まれた
天之日矛は、その阿加流比売(アカルヒメ)と結婚した

天之日矛と阿加流比売の結婚はすぐに破綻をむかえた
阿加流比売はおいしい料理を作り天之日矛に尽くしたが
天之日矛は口うるさく難癖をつけるため
阿加流比売は腹を立てて家を出て、日本に渡ってしまった
阿加流比売は小舟でやってきて難波にたどり着いた

妻を探して天之日矛も海を渡って日本にやってきた
だが海峡の神が邪魔をして難波にたどり着くことができない
日本海をたどって但馬までやってきたが
結局ここで阿加流比売を探すことを諦めて
但馬の俣尾の娘である前津見(マエツミ)と結ばれた

そして二人に子供が生まれて
天之日矛から数えて4代目が多遅麻毛理(タジマモリ)で
その弟である多遅摩比多訶(タジメヒタカ)の娘が神功皇后の生母である葛城の高額比売命(タカヌカヒメノミコト)である
つまり神功皇后は天之日矛の6代目の子孫にあたるということだ

ちなみに日本書記ではこの説はとっていない

天之日矛は新羅から、珠や鏡など8種の神宝を携えてきた
その神宝を神として祀っているのが伊豆志神社(兵庫県豊岡市の出石神社)だと古事記では語られている

古事記の中巻は神武天皇から応神天皇まで
次の仁徳天皇から最後の下巻となる

応神天皇と3人の子②

応神天皇が命を落とすと
大山守命が野心をあらわにし、皇位を狙って動き始めた

大山守命は宇遅能和紀郎子を抹殺しようと武器を集めた
大山守命の動きを察した大雀命は宇遅能和紀郎子に、そのことを知らせた

宇遅能和紀郎子は現在の京都府の宇治で大山守命の攻撃に備えた

兵を宇治川のほとりに潜ませて
山の上に立派な陣屋を構えた

その陣屋に自分の身代わりを置き
宇遅能和紀郎子がそこにいるかのようにふるまわせた
宇遅能和紀郎子は船頭の姿となって
宇治川の渡しで大山守命が来るのを待っていた

宇遅能和紀郎子が宇治を戦いの場に選んだのには
理由があった

宇治は宇遅能和紀郎子の母の出身氏族で
当時の大豪族だった和邇氏の拠点のひとつだったのだ
宇遅能和紀郎子が皇位継承者となったのも
和邇氏の権勢が大きな影響を及ぼしていたようだ

宇治川に大山守命が攻めてきた
大山守命は偽装された陣屋を見上げて
船頭に変装した宇遅能和紀郎子に
「あそこにいる大猪を討ち取ってやる」と
自信満々に語った

船が宇治川の中ほどまで来たとき
宇遅能和紀郎子は船を傾けて大山守命を川に落とした
大山守命は川岸まで泳ごうとしたが
川のほとりに潜んでいた兵士たちが弓を構えているので
上がることができない
大山守命は、そのまま流されていき水死した

大山守命を倒した宇遅能和紀郎子だったが
皇位に就くことを拒んだ
異母兄弟の大雀命が皇位に就くべきだと主張した

一方、大雀命の方も
今は亡き父の応神天皇が決めたことだからと受け入れなかった

天皇に魚介類を献上する役目の海人が
宇遅能和紀郎子に鮮魚を届けるが、自分は天皇ではないと言って受け取らない
それではと大雀命に届けるが、こちらも受け取ってはもらえない
それを繰り返しているうちに魚は腐ってしまった

皇位を譲り合う二人であったが
宇遅能和紀郎子が亡くなったので
結局、大雀命が天皇の座に就くこととなった

応神天皇と3人の子①

第15代の応神天皇は多くの妃をもっていた
そして、その妃たちとの間に男女27人もの子をもうけた

その中でも特に応神天皇が信頼を置き
目をかけていたのが
年の順に
大山守命(オオヤマモリノミコト)、大雀命(オオサザキノミコト)、宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラツコ)
の3人であった

天皇はある日は、大山守命と、大雀命を呼び出し
こう問いかけた
「お前たちは、年上の子と年下の子では、どちらがかわいいか?」と
応神天皇は一番年若い宇遅能和紀郎子を次期後継者と考えていたからだ

大山守命は「年上の子のほうがかわいい」と言った
大雀命は、父の真意を察し「年下の子のほうがかわいい」と答えた

大雀命の言葉に満足して
応神天皇は宇遅能和紀郎子を次期天皇に任命し
大雀命を自分の政治の責任者に任命した

大山守命には海や山の民を統括する閑職を与えた

応神天皇は慈愛の深い人柄だった
それを象徴するかのようなエピソードがある

日向に美しい髪長比売(カミナガヒメ)がいると聞いた応神天皇は
ぜひ妃に迎えたいと
大雀命に難波まで迎えに行かせた

しかし、髪長比売を見た大雀命は一目惚れしてしまった

ここで古事記では定番の
一人の女性を奪い合う骨肉の争いに発展しそうだが
応神天皇は快く大雀命に髪長比売を譲ってしまったのである

応神天皇のこのおおらかな性格のおかげか
応神天皇の御代は大きな戦乱もなく
平穏な時代が続いていた

この時代は朝鮮半島から多くの渡来人が訪れて
日本に定住していく

新羅から来た人々は
建内宿禰(タケシウチノスクネ)に率いられて灌漑用の百済池(現在の奈良県広陵町)
をつくった

また国内の文化の向上を図るため
百済に人材を集めたが
百済王は文人の和邇吉師(ワニキシ)を献上
さらに鍛冶の技術者なども送ってくれた

当時の先進地だった朝鮮半島の最新技術が
日本国内に伝えられ国力の発展に大きく貢献した

秦氏や漢氏といった
のちに朝廷を支えることになる豪族の祖先たちも
このころに日本にやってきたとみられているが

日本の発展のために訪れたというよりは
朝鮮内の戦乱が激化したために亡命してきたものたちとみられている

神功皇后の遠征③

大和へ凱旋しようとした時
神功皇后は我が子の品陀和気の異母兄にあたる
香坂王(カゴサカノミコ)と忍熊王(オシクマノミコ)が反逆しようとしているとの情報を耳にした
神功皇后と品陀和気を待ちかまえて殺害し、天皇の座を奪う計画を立てていたのだ

仲哀天皇の亡骸を運ぶ船を用意して
その船に品陀和気を乗せて
品陀和気は死亡したという噂を流した
その喪船を先頭に、瀬戸内海を進んでいった

香坂王と忍熊王は
斗賀野(現在の神戸市灘区、または大阪市北区兎我野町付近といわれている)
で待ち伏せをして
そこの場所で戦いを占った
すると突然、大きな猪が現れ、怒り狂って香坂王を食い殺してしまった

占いの結果にめげずに
忍熊王は伊佐比宿禰(イサヒノスクネ)を将軍に立てて
軍勢を構え、神功皇后に攻撃をしようとした

神功皇后は、軍勢を迎え撃ち
忍熊王を劣勢に追い込んだ

忍熊王は山城国で陣容を立て直し
一進一退の戦いとなった

この膠着状態を脱するために神功皇后の将軍が
一計を案じた

神功皇后が死亡したと偽情報を流し
降伏するように見せかけて
油断した相手のすきをついた

この作戦は見事成功し
忍熊王の軍は散り散りになった

逃げる忍熊王の軍を、神功皇后の軍は
逢坂(現在の京都府と滋賀県の境)まで追いつめて
楽浪(琵琶湖西岸)で壊滅させることに成功した
降参した忍熊王は琵琶湖に入水して命を絶った
神功皇后の軍の大勝利となった

一方、品陀和気は一度死んだことにされたために
その汚れを清める必要があった
そのため敦賀の気比神宮に参拝する

そこで品陀和気は、気比の伊奢沙和気大神(イザサワケノオオカミ)と
汚れ払いのために名前を交換した

汚れを落とし清らかな身となった品陀和気は
母の神功皇后のいる大和へ向かい
やがて即位して応神天皇となった

神功皇后の遠征②

神功皇后一行を乗せた船団が出航すると
追い風が吹き始め、船は加速をつけて朝鮮海峡を渡っていく
大小さまざまな魚が集まってきて船を背負って航行を助けた

神功皇后の船団は大波を立てて進み
その波が新羅国に押し寄せたので国土の半分を浸してしまった

神功皇后の勢いに圧倒されて
新羅王は降伏を申し出て
「今後は命令に従い日本のために馬を飼育する臣民となります。さらに毎年貢物を送ります」と言った
神功皇后は百済(くだら)も貢納国と定めた

在地の神や民衆の反乱を抑えるために
神功皇后は新羅王の家の門に
住吉三神の依り代となる杖を突き立てて
日本を守護する神として祀った

それが終わると神功皇后は軍勢を率いて帰国した

神功皇后は仲哀天皇の子供を身ごもっていた
新羅遠征の際に生まれそうになったが
非常時だったので腹に石を巻いて出産時期を遅らせていた

朝鮮半島の遠征で成果をあげて九州に戻った神功皇后は
ようやく品陀和気命(ホムダワケノミコト)を生んだ
神功皇后が出産したことにちなんでその地を宇美(福岡県字宇美町)と呼んでいる

本当に神功皇后が遠征したのかどうなのかについては
疑問も多い

実際に4世紀末から5世紀初頭にかけて
日本が朝鮮半島に軍を派遣したのは事実であるようだ

半島北の高句麗が南下策をとって
新羅と連携して百済を圧迫してきた

日本は百済の要請に応えて出兵し新羅の国内まで攻め入った

この神功皇后の遠征は
この歴史的事件をなぞっているようにも思われる

他の文献によると
400年と404年の戦いで
日本軍は逆に壊滅状態となったようだ
新羅を服属させたわけではなかったようなのだ

その屈辱で神功皇后の遠征の物語を作ったのか…

内容に疑問視する声も多い物語でもある

神功皇后の遠征①

成務天皇が亡くなり直系が絶え
悲劇の英雄である倭健の子である
仲哀天皇(第14代)が即位した

九州の熊曾が反乱を起こし
天皇は反乱を鎮圧するために香椎宮(福岡県)に赴いた
しかし、皇后の息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト)に神が降臨し
海のむこうの金銀財宝に恵まれた国(新羅)を服属させよと託宣した

天皇がこの神の意向を疑うと
怒りに燃えた神は
「そなたが天下を統治すべきではない。黄泉国へいけ」と言った
天皇はその場で命絶えてしまう

神は大臣の建内宿禰(タケシウチノスクネ)に言葉を降ろした
神は皇后の胎内にいる子が世継ぎであると述べて
全ては天照大御神の意思であると告げた

建内宿禰が神託した神の名前を問うと
住吉三神(大阪の住吉神社の祭神)だと言った

さらに建内宿禰に住吉三神は託宣して
天上神や地上界、山や川、海の神をすべてきちんと祀り
自分の神霊を朝鮮半島に出撃する船に乗せて渡航すれば
望みはきっとかなうだろうと語った

住吉三神は伊邪那岐神(イザナキノカミ)
が黄泉国から戻ってミソギをしたことによって生まれた神だった

航海の安全を守る神で
そのため新羅遠征の守護神となった

しかし天皇に神罰を与えたので
朝廷からは畏れ敬われていたようだ

神を降ろして託宣を告げる建内宿禰は
成務天皇(日本書紀では景行天皇から)にはじまり
仁徳天皇まで4代にわたって仕えたと言われている
計算すると建内宿禰は300年間生きたことになる

神功皇后は三好三神の言う通りに
神祀りを尽くし
軍勢や船団を整えて半島へ向かった
日本書紀ではこの時、神功皇后は男装して出撃したと書かれている

倭健命の遠征④

倭健は酒折宮から信濃を越え
尾張の美夜受比売(ミヤズヒメ)のもとに帰ってきた
約束を果たして結婚をして
そのあと、伊吹山の神を倒すために出かけて行った
その際に伊吹山の神を素手で倒してみせると意気込んで
草薙剣(きさなぎのつるぎ)を美夜受比売のもとに置いていった

伊吹山の神は巨大な白い猪の姿となって現れた
倭健は伊吹山の神を山の神の下僕だと言って侮辱したため
神を怒って激しい雹を降らせた

倭健は意識がもうろうとなり
玉倉部の清水にたどり着いて、なんとか正気を取り戻した

倭比売が授けた草薙剣は
伊勢神宮の加護の証で
剣を手放したことによって倭健の運命は暗転してしまったのである
様々な戦いによって挙げた功績の数々も
伊勢神宮の神威が後ろ盾になっていたからだったのだ

倭健の肉体は衰えていった
歩くのも困難だったが
体に鞭を打って
故郷の大和への道をたどった

鈴鹿を越えれば大和に着くという能煩野(のぼの)まできて
倭健は自分の死期を感じていた
そして故郷を忍んで歌を詠んだ

「倭は国のまぼろば たたなづく青垣 山隠れる倭しうるわし」
(大和国は国の中でももっとも秀でている。山々が青垣のように囲み、なんと美しいことか)

そして懐かしい我が家のほうから雲が沸き起こってくると
うたい命尽きた

勇猛であった倭健は父から避けられて
生涯、戦いに明け暮れるしかなかった
倭健はそんな悲しい英雄だった

悲報を聞き大和から遺族がかけつけ
陵をつくって嘆き悲しんでいたが
倭健の魂は白い鳥になって陵から飛び立っていった

白鳥は河内の志幾(しき)に飛来したため
その地にも陵をつくったが
白鳥はまた飛び立っていった

倭健の物語は
各地を平定していった多数の戦士たちの活躍と苦悩を
ひとりに集約したのではないかとも言われている

表舞台に立つことはないが
国の建国の時期に活躍した戦士の魂を鎮めるための物語なのかもしれない

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