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第十七回 「覚鑁その三」・・(平成19年7月1日)

 さて、『五輪九字明秘密釈』の内容は、非常に難解とされ、中国の陰陽五行説・道教の身体観や俗信が入り交じっていて、その解明だけでも大変苦労する書物です。加えて、本文のほとんどが五輪の真言=マンダラと、阿弥陀小呪の真言=マンダラの梵字に関した微細な説明の連続のために、非常に複雑な内容となっています。
  なので、その詳細な内容については、ここでは触れません。「大日=阿弥陀」「即身成仏=往生」は真言密教の教理の中では矛盾しないことである、という点が本書の主題であることは、すでに先月お話ししたように、序文で確認できますので、「五輪塔」がいかにそのことを表現しているのか、を解説していくことにします。 まず密教の最終目的が「即身成仏」であることは明確です。「即身成仏」とは「私たちがいま生きている、この身このまま(即身)」で、誰でも「成仏」できる、あるいはその可能性を持っている、ということです。では、密教ではどのようにして「即身成仏」するのでしょうか?
  真言宗開祖・空海には『即身成仏義』という著作があります。この中で空海は、本来、我々すべてに、宇宙=大日如来と同じ「六大」(「体大」大日の本質)・「三密」(「用大」大日のはたらき)・「四曼」(「相大」大日の姿)が備わっているので、必ず「即身成仏」できると述べています。しかし煩悩のためにそれらを正しくとらえることができません。そこで修行して本来の姿を取り戻す必要があります。この修行を「三密」と言います。そして「三密」を正しく実践するための宇宙観が「六大」「四曼」です。

 「六大」とは空海独自の教義で「五大」(地大・水大・火大・風大・空大)=「五輪」に「識大」を加えたものです。宇宙そのものの真理である大日如来と修行者は、本質的に同じであり、一体となることができる。その根拠が「六大」であるとされます。本質的に同じであるが故に、修行者は現世に於いて成仏、つまり「即身成仏」できるということになります。
  その六大とは、それぞれに次のようなことを指します。

「地大」大地が一切のものを載せ、ものの拠り所となる堅固さ、安定感に満ちた性質を現す。坐禅修行者の足に当たる。ア・四角・黄色に象徴される。
「水大」一切のものを清め、爽快感を与え、ものを育成させる柔軟性があり、復元力に優れた性質を現す。坐禅者のへそに当たる。ヴァ・円・白に象徴される。
「火大」一切のものを焼き尽くす烈しさとともに、温かさを現す。坐禅者の心臓に当たる。ラ・三角・赤に象徴される。
「風大」一切のものを吹き飛ばす活動性、ダイナミックな性質を現す。坐禅者の首に当たる。カ・半月・黒に象徴される。
「空大」虚空が無限できわまりないように、底知れない包容力を現す。坐禅者の頭に当たる。キャ・宝珠・青に象徴される。
そして「識大」は、これら「五大」の性質を見る主体(つまり自分)のことを言います。

 空海はこれを総合して「六大は無碍にして常に瑜伽なり」つまり「見られる五大も、見る主体の識大も区別されることなくひとつに統一されている」と言ってます。「六大」は大日如来の身体=宇宙全体であると同時に、修行者のからだでもある故に、「大日如来と修行者は本質的に同じ」であり、これこそが「即身成仏」できる根拠となります。

 次に「四曼」(相大=大日の姿)とは、「大曼陀羅(諸仏・諸菩薩など諸尊の形像で現す)」「三昧耶曼陀羅(諸尊の持ち物で現す)」「法曼陀羅(諸尊の種子で現す)」「羯磨曼陀羅(諸仏菩薩の手足の動作で現す)」四種類の曼陀羅です。密教に於ける曼陀羅は、『大日経』を根拠として「五大」の世界を表現した「胎蔵界曼陀羅」と、『金剛頂経』を根拠に「識大」の世界を表現した「金剛界曼陀羅」があり、このふたつの曼陀羅を「両界曼陀羅」もしくは「両部曼陀羅」と言い、このふたつの曼陀羅一対で大日如来の世界を表現しています。

 そして「三密」(用大=大日の働き)とは、「即身成仏」するための三つの修行のことです。それぞれ「身密」(「印契」手に印を結ぶ)、「口密」(口で「真言」「陀羅尼」を唱える)、「意密」(集中して「三摩地」の境地に入らせる)と呼ばれます。修行者は、本尊の前で坐禅を組み、手で印契を結び、口に真言を唱え、心を集中させて、三密をおこない、大日如来と一体にならんとします。これが「即身成仏」のための修行です。

 やや長くなりましたが、これが「五輪塔」を理解するための最低限の知識です。そして、これに基づいて覚鑁は図のような「五輪塔図」を描きました。

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 横に五輪塔の略図を並べてみましたが、並べ較べてみてわかるように、覚鑁は五輪塔に「三密加持行」をすべて実践している修行僧の姿をなぞらえていることがはっきりと見ることができます。つまり「五輪塔とは密教の即身成仏を完成した姿」であると言えます。
  具体的には、①「五輪塔」は胎蔵界・金剛界の大日如来が坐禅(三摩地)をしている姿で「意密」を示しており、それは②「水輪」の印契(「定印」)が「胎蔵界の大日」を現し、「火輪」の印契(「智拳印」)を現して、「両界不二」を示し、③同時にそれは印契によって「身密」を現し④五大の梵字(ア・ヴァ・ラ・カ・キャ)があることで「口密」を示すのです。

 この「五輪塔」が石塔としてお墓に用いられ、後に「納骨器」としても使われたということは、「五輪石塔は死者の成仏」を意味していることになります。そして逆に「五輪塔に埋葬すると、あるいはお墓に建てると、死者は皆成仏できる」という展開も見えてきます。
  覚鑁は、こうした理論づけをおこなっただけではなく、配下の高野聖を用いて全国に普及させました。それだけではなく、先に述べたように『五輪九字明秘密釈』にて、当時世を席巻していた浄土教の教えを密教に取り込むことでより民衆に深く浸透させることを可能にしたのです。
  こうして五輪塔は、平安末期から約800年間にわたってお墓の中心的存在として建立され続けることになるのです。

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