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神武の東征③

話は、大和平定目前となる
いよいよ初代天皇である神武天皇の誕生である

伊波礼毘古(イワレビコ)のもとい邇芸速日命(ニギハヤヒノミコト)がやってきた
高天原の御子が天から降りたと聞き、あとを追ってきたと語った

 

邇芸速日命は天の神の印である宝ものを伊波礼毘古に献上して

臣下になりたいと申し出た

邇芸速日命は別の降臨系譜を持つ神ということになる
実は、古事記ではこの件に関して詳しく語られていない
古事記で語られた内容は
那賀須泥毘古(ナガスネビコ)の妹と結婚し、生まれた子が物部氏らの祖先になった
…というおとだけだ

日本書紀では、もう少し詳しく書かれていて
邇芸速日命は、那賀須泥毘古が祀ってきた神だとし
伊波礼毘古に逆らう那賀須泥毘古を殺害して帰順したと書かれている

なぜ古事記では詳しく書かれていないのか?
朝廷の軍事と祭祀権を司った古代の大豪族である物部氏への言及をさけるためであると考えられている

 

いよいよ大和で政権を確立した伊波礼毘古は畝傍山(ウネビヤマ)の麓に
白檮原(ハシハラ)宮を造営し
そこで即位して初代天皇である神武天皇となり、国を治めはじめた

 

この即位の日は日本書紀では「辛酉年の春正月、庚辰の朔」と書かれている
明治政府はその日を「紀元前660年2月11日」と決定した
現在、建国記念日は2月11日だが、それはこの決定がもとになっている

 

神武天皇は日向にいたころに
阿比良比売(アヒラヒメ)を娶って
多芸志美美命(タギシミミノミコト)と岐須美美命(キスミミノミコト)が生まれていたが

それとは別に、大和で政治を行うために正式な皇后を探していた

それを聞いた大久米命(オオクメノミコト)が一人の女性を推薦してきた
奈良三輪山の神大物主神(オオモノヌシノカミ)と三島湟咋(ミシマノミゾクイ)(大阪府茨木市の溝咋神社の祭神)の娘との間にできた伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)だった

大物主神出雲の大国主神の分身か同一神とされている

 

この結婚は、天孫系神と出雲系神の統合を意味する
二人は結婚し
日子八井命(ヒコヤイノミコト)、神八井耳命(カムヤイミミノミコト)、神沼河耳命(カムヌナカワミミノミコト)の三人の子が誕生した

 

神沼河耳命は、次の綏靖天皇となる

神武の東征②

天にいる高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)は熊野から先に進むと
反抗する神がたくさん存在するからと案内役として八咫烏(ヤタガラス)を送ってきた

 

八咫烏の案内に従いついていくと

吉野川の下流で魚を採っている神に遭遇した

山に入ると尾お生やした神がいた

双方とも、伊波礼毘古(イワレビコ)に忠誠を誓うために参上した神だった

 

これらの神は、のちに
大和王権を支える豪族の祖先神となる
これらのストーリーから、この物語は
大和の各豪族の伊波礼毘古に対する服属を示していると言える

 

八咫烏は通常3本足で書かれているが
実は、古事記や日本書紀には八咫烏の足の数の記述はなく

中国の神話の影響で3本足で描かれているに

 

八咫烏は現在

サッカーの日本代表のシンボルマークに採用されているが
その足も3本で描かれている

 

東征を進めていくと

奈良盆地の東南にある宇陀に
兄宇迦斯(エウカス)と弟宇迦斯(オトウカシ)という兄弟がいた

八咫烏が、その兄弟に伊波礼毘古に従うか問うと

兄は矢を放って八咫烏を追い返した

 

この兄は悪知恵を働かせて

いったん伊波礼毘古に従う姿勢を見せて欺き
罠を仕掛けた御殿を作り伊波礼毘古の暗殺を計画していた

 

この兄とは対照的に弟の方は

伊波礼毘古に従うことを示し、兄の暗躍を伊波礼毘古に報告した

そして、軍務を担当する道臣命(ミチノオミノミコト)らによって責め立てられて

兄宇迦斯は自分が罠を仕掛けた御殿で殺されることになる

いよいよ奈良盆地に入ってきた一行は忍坂(桜井市)に到着すると
尾の生えた土雲と呼ばれる大勢の土豪たちが

岩屋でうなり声を上げながら待ち構えていた
伊波礼毘古は料理を出して接待をして
油断した土豪たちを歌を合図に隙を見て打ち殺した

 

このように伊波礼毘古は従わない地元の勢力を駆遂していき
平定を進めていった

神武の東征①

鵜葺草葺不合命(ウカヤフキアエズノミコト)の子である神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)(のちの神武天皇)は
兄の五瀬命(イツセノミコト)と話し合い、東の地で政治を行うことに決めて
船で日向(ひむか)を旅立った

 

この神倭伊波礼毘古命による大和への大移動を神武東征という

 

まず、一行は豊予海峡を越えて宇佐に着き
宇沙都比古(ウサツヒコ)、宇沙都比売(ウサツヒメ)のもてなしを受けた

福岡県の岡田宮には1年滞在し、そこから瀬戸内海に入った
そのあと、広島県の多祁理宮(たけりのみや)に7年、岡山県の高島宮で8年暮らした

高島宮を出てから、大阪湾の楯津(東大阪市日下)では
大和の那賀須泥毘古(ナガスネビコ)の軍勢と戦闘になった
ここで神倭伊波礼毘古命の軍は大きな痛手を負うことになる

 

那賀須泥毘古との戦いは非常に激しいものとなった
兄の五瀬命は、この戦いで矢を受けて負傷した

五瀬命は「我々は太陽神の子なのに日に向かって布陣して戦ったので敗れた。日を背にして敵と戦おう」と言った

神倭伊波礼毘古命は兄の言葉に従って紀伊半島に沿って船で下り
熊野で上陸してから、南から大和に攻め上ることにした

 

しかし、男之水門(おのみなと)(大阪市泉南市)まで到達したら

兄の五瀬命が傷の悪化によって命を落としてしまう
日向を出発して16年経ったころのことだった
兄の死にもめげず神倭伊波礼毘古命は南へ進み
熊野村(和歌山県新宮市のあたり)に到着したが熊の姿が見えたとたんに
神倭伊波礼毘古命は兵士と共に意識を失った
すると高倉下(タカクラジ)という地元の者が現れて
一振りの大刀を献上した

それによって神倭伊波礼毘古命たちは意識を取り戻した
この大刀は天上にいる天照大御神(アマテラスオオミカミ)と高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)が神倭伊波礼毘古命の窮地を救うために
建御雷神(タケミカズテノカミ)に命じて下したものだった
大刀の力は強大で熊野の敵対する神を瞬く間に滅ぼしていった

海佐知毘古・山佐知毘古②

海神国で火遠理命(ヒオリノミコト)と結婚した豊玉毘売(トヨタマビメ)は
妊娠していて出産の時期を迎えようとしていて
夫のもとにやってきた

 

火遠理命は身ごもっている妻のために
渚に産屋を作り、屋根を鵜の羽で葺いた

しかし産屋が完成しないうちに豊玉毘売の陣痛が激しくなり
産気づいてしまう

豊玉毘売は産室に入り
お産がはじまるときに夫に言った

「異郷のものである私は、本来の姿に戻ってお産をしますので、絶対にお産の様子を見ないでください」と
この言葉が気になって、我慢できなくなった火遠理命はこっそり覗いてしまう

そこには大きなワニに変身して、身をくねらせている妻の姿があった
火遠理命は恐ろしくなって、その場から逃げ出してしまった

本当の姿を火遠理命に見られてしまった豊玉毘売は
恥ずかしさのあまり故郷の海神国へ帰ってしまった

 

火遠理命と豊玉毘売の子供は

屋根を鵜の羽で葺き終わらないうちに生まれたので
鵜葺草葺不合命(ウカヤフキアエズノミコト)と名付けられた

 

火遠理命のもとを去った豊玉毘売は
置いてきた我が子が心配になり海神国から妹の玉依毘売(タマヨリビメ)を送った

成長した鵜葺草葺不合命は叔母である玉依毘売と結ばれて

4人の子供に恵まれた
五瀬命(イツセノミコト)、稲氷命(イナヒノミコト)、御毛沼命(ミケヌノミコト)、若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)である

 

のちに次男の稲氷命は母の住む海神国へ行き
三男の御毛沼命は海のかなたにある常世国へ渡り
日向に残ったのは長男の五瀬命と四男の若御毛沼命で
若御毛沼命は別名を神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)といい
のちの初代天皇である神武天皇となる

なお山佐知毘古(ヤマサチビコ)こと火遠理命は580年間生き
陵墓は高千穂の山の西にあると書かれている

ここまでが古事記の上巻の神の話であり
中巻からは天皇が統治する人の代の話になっていく

海佐知毘古・山佐知毘古①

邇邇芸命(ニニギノミコト)と木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)の子どもに

兄の火照命(ヒデリノミコト)、弟の火遠理命(ホオリノミコト)がいる
この兄弟は当然、天照大御神の血をひく兄弟である

 

ある日、火遠理命は兄の火照命から釣針を借りて釣りをしていた

しかし、魚が一匹も釣れず
兄が大事にしていた釣針も紛失してしまった

兄に謝罪をしたが許してもらえなかったので、火遠理命は海辺で悲しんでいた
その時、塩椎神(シオツチノカミ)がやってきて、海神国へ行くように勧めた

塩椎神が編んだ竹籠の船に乗って沖に出ると
海神、綿津見神(ワタツミノカミ)の宮殿に到着した

海神は火遠理命を快く迎えてくれて、宮殿で歓待した
海神の娘である豊玉毘売(トヨタマビメ)も火遠理命に好意を寄せてくれた

火遠理命は豊玉毘売と結婚して

海神国で暮らし続けた

海神国での暮らしは瞬く間に過ぎ
気が付けば3年に月日が流れていた

 

3年経った時、火遠理命は兄の釣針を探していたことを思い出した
それを聞いた海神は赤鯛の喉に刺さった釣針を見つけてくれたので
火遠理命は故郷に帰る決意をする

 

火遠理命は帰る時に海神から

「兄を懲らしめる呪文」と「海の満ち引きを操る玉」を授かった

 

故郷に戻ってきた火遠理命が
「兄を懲らしめる呪文」を釣針にこめて兄に返したため

不漁が続き、兄の生活は貧しくなってしまった

火遠理命は「海の満ち引きを操る玉」を使って
満潮にして兄を溺れさせて
兄が助けを求めると潮を引いた

この結果、兄は火遠理命に逆らわず
火遠理命の護衛として仕えることを誓った

 

火照命の子孫である九州南部を出身とする隼人も代々朝廷の警護役を担うことになった

 

この神話は兄弟の争いを通じて
隼人の大和王権への服従の由来を語っている
実際には隼人は早い時期から中央との関係を築いてはいたが
たびたび反抗していて、警護役になったのは7世紀の後半になってからである

神武天皇へつなげて

全国には、大小8万を超える神社がある

その神社には、大きく4つの区分けが存在している

その区分けを「社号」という

 

社号は、神社名に付いているので
それで確認することができる

社号には「神宮」「宮」「大社」「社」がある

 

例えば、明治神宮や、出雲大社

などの「神宮」や「大社」の部分である

 

鳥居や拝殿、本殿にあげられた額からも、それを知ることができる

以下が、それぞれの社号の意味である

 

「神宮」は、天皇や皇室の先祖神を祭神とする、規模の大きい神社である

代表的な神社は「熱田神宮」「石上神宮」「鹿島神宮」「香取神宮」「鵜戸神宮」「平安神宮」などがある

 

「宮」は、皇室にまつわる人物や、人間神などを祭神にする神社である

代表的な神社は「香椎宮」「聖母宮」「北野天満宮」「日光東照宮」などがある

 

「大社」は、出雲大社のみの社号だったが、明治以降、規模や格の高い神社に使われるようになった

代表的な神社は「出雲大社」「諏訪大社」「春日大社」「多賀大社」「熊野本宮大社」などがある

 

「社」は、大きな神社から祭神を勧請している小規模の神社である

代表的な神社は「祇園社」「稲荷社」「天神社」「八幡社」などがある

 

ちなみに天皇という言葉は

初代からあったわけではないようだ

 

初代の神武天皇は

当時の呼び名は「彦火火出見大王」(ひこほほでみだいおう)

であった

 

天皇号ができるのは

天武天皇(第40代)のころとされている

 

奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から

「天皇」という文字が書かれた天武時代の木簡が発掘されたので

それが裏付けとなっている

 

次の代の持統天皇のときに発布された

飛鳥浄御原令で、天皇号が正式に法令化された

 

だから、それ以前の天皇の呼び名は

後になって付けた死後の名前である

天孫降臨②

邇邇芸命(ニニギノミコト)は、笠沙の岬(現在の鹿児島県薩摩半島の野間岬)で 見目麗しい木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)を見初めた
結婚したい邇邇芸命は、許しをもらうために

木花之佐久夜毘売の親である大山津見神(オオヤマツミノカミ)のところに使者を派遣した しかし、大山津見神は献上品を添えて、一緒に姉である石長比売(イワナガヒメ)も差し出してきた

しかし、石長比売は恐ろしい容姿だったため 邇邇芸命は姉だけを親のもとに返した

 

親である大山津見神曰く

「姉妹を差し出したのにはわけがある。石長比売との子の命は岩のように永遠になり、木花之佐久夜毘売との子は咲き誇る木の花のように栄える。しかし、妹の方だけを選んだので生まれてくる子たちの寿命は限りあるものになってしまった」

 

これは、天皇が人間と同じ寿命である…ということに対し 整合性をはかるためのストーリーであると考えられている

 

邇邇芸命と一夜を共にした木花之佐久夜毘売は懐妊し出産の時を迎えた

しかし、邇邇芸命は木花之佐久夜毘売を疑った 生まれてきた子は地上の神の子ではないか…?と 木花之佐久夜毘売は、「高天原の御子であるから、必ず無事に生まれるはずだ」と 産屋に入り、自ら火を放った

燃え盛る炎の中で木花之佐久夜毘売は3人の子を生んだ

 

その3人の子は

火照命(ホテリノミコト)、火須勢理命(ホスセリノミコト)、火遠理命(ホオリノミコト)

といい

炎の中での出産にも関わらず、3人とも無傷で 木花之佐久夜毘売は天の血をひく子であることを証明した この3人は天照大御神の曾孫にあたり

火須勢理命は初代天皇の神武天皇の祖父となる

 

木花之佐久夜毘売は古事記では、神阿多都比売(カムアタツヒメ)という別名で語られることがある

この名称から九州の阿多地方の氏族の女神であると考えられている

 

そして後世になって

木花之佐久夜毘売は富士山の神として祀られ 石長比売も石の神として神奈川県の大山お祭神となり 人々から信仰を集めている

天孫降臨①

天照大御神と高御産巣日神は環境が整ったということで 地上に天照大御神の子である天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)を降すことにした

 

その命令を受けた天忍穂耳命は高御産巣日神の娘の万幡豊秋津師比売命(ヨロズハタトヨアキツシヒメノミコト)との間にできた子である邇邇芸命(ニニギノミコト)を自分の代わりに降臨させるように頼んだ

高天原の最高神である天照大御神と高御産巣日神は、それを承諾した

 

最終的に地上の統治に指名されたのは邇邇芸命であった

邇邇芸命は天照大御神の孫にあたるので天孫と呼ばれるようになる

 

なぜ、降臨する神が急きょ変更になったのであろうか?

これは古事記を作成する時に、女帝の持統天皇から孫の文武天皇に譲位されているが その状況が反映され、太上天皇として幼い天皇を後見するということで 持統天皇を天照大御神に 文武天皇を邇邇芸命になぞらえたのではないかと言われている

 

邇邇芸命が地上に降りようとした時に 高天原と地上をつなぐ道の辻に、天と地を照らす不思議な神が現れた

天宇受売命(アメノウズメノミコト)が命じられて名前を聞くと

猿田毘古神(サルタビコノカミ)と名乗り、案内役を買って出た

 

高天原は邇邇芸命に天児屋命(アメノコヤネノミコト)や天宇受売命など八神を従わせて

三種の神器(八尺の勾玉、八咫の鏡、草薙剣)を与えて降らせた

 

一行は雲を押し分けて進んでいき、九州の日向の高干穂の霊峰に降り立った

そこには天孫に仕えるために天忍日命(アメノオシヒノミコト)らが到着を待っていた

 

「この地は朝日がよく差し、夕日が明るく照るいい国だ」と邇邇芸命は語り

太い宮柱を建てて大きな宮殿を建設して、そこで暮らすことにした

 

その日向の高干穂は、現代のどの場所にあたるのであろうか?

有力な候補は二カ所あり

宮崎県北部の高干穂町と、宮城県と鹿児島県の県境にそびえる霧島連山の高干穂峰だ

 

しかし、高干穂は土地の名称ではなく 神霊が降りるための高く積んだ稲穂のことを意味するという説も存在する

大国主神の国譲り④

諏訪から出雲に帰ってきて
建御雷(タケミカヅチ)は、再度大国主に国譲りを迫った。

すでに事代主(コトシロヌシ)も建御名方(タテミナカタ)も高天原に従うことを誓っている。考えを聞こう。

ここにきて大国主は地上を献上することを誓った。
国譲りが成立し、天照大御神の子を地上に送る準備が整ったのだ

国譲りは、高天原が天皇家の祖先に地上世界を支配することを命じ
地上世界の最高神であった大国主が地上世界を譲ったことを記した物語である。

これは高天原の直系である天皇家が国を支配するという
正当性の根拠を示している天皇家にとっては大切な物語なのである

国譲りの物語は、一応神話であって事実ではないとされているが
そもそも巨大国家でもなっかた出雲が物語の舞台とされているのか?

大国主は出雲に留まらず、日本全国で広く信仰される神だった。
その大国主に対して、神の中でも上位にあたることを主張するのが国譲りである。
大和から見て日が沈む方向にある出雲を黄泉の国に見立てて
そこに追いやって祀ったために、出雲が物語の舞台として選ばれたと考えられている。

大国主は国譲りを認めるかわりに条件を出した
「宮柱を太くして立て、大空にそびえる立派な神殿を建ててほしい。
その願いをかなえてくれたら、幽界に退き静かに暮らそう」
と。

この大国主の国譲りの条件は
出雲大社の起源を物語っている。

出雲大社の成立時期は不明なのだが
出雲大社は古くから立派な社殿が造られるようになっていった。
平安時代には奈良の東大寺大仏殿を超える高さ48mにもなっていたという。

発掘調査でも鎌倉時代のものと思われる巨大な宮柱が発見されており
大国主の国譲りの条件を裏付ける証拠となっている。

その高層な社殿は国譲りの代償であり
大国主の無念の魂を鎮める目的だったのであろう

今の出雲大社の本殿は江戸時代に建てられたものだが
その物語を継承しているかのように
千木までの高さが24mもあり
全国の神社の中でも群を抜く高さである。

穢れ、喪に服す

喪の穢れを忌み嫌う…という感覚は

現代社会において、どのくらい残っているだろうか?

 

近しい人の死に対して

現代は、1年は喪に服すと言われているが

昔に比べれば、その行動の制限は軽くなってきているように思われる

 

現代は、日常生活が経済活動を基盤としているためか

喪に服す行動の制約が、大きな弊害となることは否めない

そんな現代の都合上、「喪の穢れ」…などと悠長なことを言っていると

生活がままならなくなるからだろう

 

そして、たとえ行動が制限されなくとも

死者を悼む気持ちに変化はない…と言い切ることが難しいのも現実である

 

簡素化された死者に対する儀式―

当然、先祖に対し思いをはせる時間も少なくなり

瞬く間に、日常と変わらぬ生活を送っている

その結果、家から死者が出ること事態が

昔に比べて、大事になっていないのだ

 

行動があるから思いがあるのか?

思いがあるから行動になるのか?

 

どちらにしても、現代の行事様式では

先祖に対する「思い」が軽くなっていること間違いないだろう

 

時代や、地域によっても大きく違ってくるが

死者に触れたものは「穢れ」と扱われ、生活上で大きな不便を強いられる

 

極端な場合には、隔離されたり

死者に触れたものが、別の者と接触した場合にも

二次感染的な扱いをされて

「穢れ」は、一種に伝染病のような扱いもされていた

公式行事(朝廷の儀式)に携わるものは

身内に死者が出た場合には

職務に関わることも許されず

一定の期間が過ぎるまで、謹慎状態となった

 

当然、めでたい席、晴れの行事に関わることは許されず

正月も、通常のように迎えることができない

喪に服しているものは、人様のしめ縄をくぐることは禁止され

そのかわりと言ってはなんだが

正月を迎える前に、お見舞いという形で訪問を受ける

「あら年(死者を出した年)の見舞い」である

 

見舞いの言葉は

「本年は存じも寄りませぬあら年でお淋しゅうございます」

「ことしは誠にお淋しいお年取りでござんす」

などと言われていた

 

めでたい年始のあいさつができないことに対する嘆きでもあるのだが

そちらは死者だ出たので、めでたい行事ができないが

私達は、淋しさに付き合いもせず

お祝いをしてしまうけど、悪く思わないでくださいね…

というニュアンスも含まれていたという

 

近年は「あら年」という言葉も使われなくなってきていて

死者を出した家…という疎外感も感じることがなくなった

 

生活が便利になればなるほど

死者に対する行いは、簡素化されていくようにも思われる

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